コロムィーヤ

コロムィーヤ

Коломия
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コロムィーヤの景色


市章
コロムィーヤの位置(イヴァーノ=フランキーウシク州内)
コロムィーヤ
コロムィーヤ
コロムィーヤ (イヴァーノ=フランキーウシク州)
コロムィーヤの位置
コロムィーヤの位置(ウクライナ内)
コロムィーヤ
コロムィーヤ
コロムィーヤの位置
コロムィーヤの位置(ヨーロッパ内)
コロムィーヤ
コロムィーヤ
コロムィーヤ (ヨーロッパ)
座標:北緯48度32分30秒 東経25度2分19秒 / 北緯48.54167度 東経25.03861度 / 48.54167; 25.03861座標: 北緯48度32分30秒 東経25度2分19秒 / 北緯48.54167度 東経25.03861度 / 48.54167; 25.03861
 ウクライナ
イヴァーノ=フランキーウシク州の旗 イヴァーノ=フランキーウシク州
ラヨン コロムィーヤ地区
初出 1242年
マクデブルク法 1405年
政府
 • 市長 ボフダン・スタニスラウスキー
面積
 • 合計 41.1 km2
標高
300 m
人口
(2022年)[1]
 • 合計 62,990人
等時帯 UTC+2 (EET)
 • 夏時間 UTC+3 (EEST)
郵便番号
78203, 78206, 78208
市外局番 +380 3433
ウェブサイト コロムィーヤ市議会公式サイト

コロムィーヤウクライナ語: Коломия)もしくはコロミアコロミヤは、ウクライナ西部のイヴァーノ=フランキーウシク州に位置する都市である。

名称

コロムィーヤがいつ、どのようにして誕生したのか、その創始者は誰なのか、都市名の由来はどこかという疑問に対して、歴史家の間でもいまだに一致した答えが得られていない[2]。初めて19世紀に表明さた説によるとコロムィーヤは、1214年にガリシア王とハンガリー王子カールマーンを記念して創設された。別の説によって都市名はプルート川の名前に由来する。昔、プルートは「ムィイ」と呼ばれていたため、都市は「コロ・ムィヤ」、つまりプルートの丸と呼ばれていた。ウクライナの地理学者ミコラ・ヤンコによれば、これらの説は説得力に欠けるという[3]

歴史

コロムィーヤについての最初の言及は13世紀半ば(1240年)に遡り、ガリシア・ヴォリン年代記に記載されている[4]

司祭ドブロスラフ・スディチの孫であるガリシアのボヤール寡頭政治家は、「ウルジニク」の維持のために都市を保持していたダニロ・ロマノヴィチ王子とその弟ヴァスィーリコ・ロマーノヴィチの許可なしに、コロムィーヤをラゾール・ドマジリッチとイヴォル・モリボジチに「臭い家族だ」と与えた[5]

1405年10月、ヴァディスワフ2世王は、都市を隆起させて人口を増やすことを目的として、リヴィウのブルガー、ニコラウス・フライステーターと、長い間コロムィーヤに属していたマティヨフツェ村(ポーランド語: Matyjowce)を与えた[6]

オーストリア=ハンガリー帝国の支配下

19世紀から20世紀初頭にかけて、オーストリアの統治下で、ガリシアでは資本主義関係が勢いづいた。株式会社と私営企業、最初の地元鉱山、トラキアおよびレンガ産業が1866年に登場した。リヴィウとチェルニウツィー間の鉄道がコロムィーヤ駅を接続した。オーストリア=ハンガリー帝国の鉄道網と、1886年にコロムィーヤは郊外の村と鉄道で結ばれていた[7]

この時期に特に重要だったのは、コロムィーヤのインテリ層の文化的成果と、地元のウクライナ人による国家愛国的な政治的自己組織化の最初の試みであった。この試みは、1848年のオーストリアでの革命的出来事、つまりコロムィーヤでの最初のガリシア劇場等が作られていた[8]

1918年3月3日、ウクライナ人民共和国政府の行動を支持して「国家権と平和の祝日」が市内で開催され、約32万人が参加した[9]

西ウクライナ人民共和国

1918年11月1日、西ウクライナ人民和国が宣言された。11月1日の夜、ウクライナ軍事委員会がコロムィーヤで権力を掌握した[10]。コロムィーヤ地区にウクライナ国家の権限が設立された。その後、数百人のコロムィーヤ人がウクライナ・ガリシア軍に志願した[11]

1919年4月29日にウクライナ国家海軍の創立記念日がコロムィーヤで初めて祝われた。ウクライナ人民共和国海軍歩兵連隊に旧オーストリア=ハンガリー帝国のアドリア海艦隊の水兵が配属されていた。ガブリル・ニコグダ大佐指揮下の海軍連隊も祝賀会に参加した[12]

ポーランドの支配下

1919年5月15日、10万人を超えるポーランド軍がウクライナ戦線を突破し、5月24日にはコロムィーヤがルーマニア軍に占領された。 1919年8月に国境協定の一環として、ルーマニアは占領していたガリツィアの土地をポーランドに譲渡し、コロムィーヤにポーランド当局が設立された。1919年から1939年にかけて、コロムィーヤはリヴィウに次ぐガリツィアの文化的および社会生活の中心地となった[13]

第二次世界大戦

1939年9月18日にソ連の第23戦車旅団が都市を占領し、第24、第2、第5歩兵師団のポーランド人兵士10万人が武装解除された。ソ連の占領力が都市に確立された[14]

ソ連の時代

ソ連最高会議選挙の前夜、1946年2月2日に、コロムィーヤで70人以上が逮捕された。1946年にソビエト当局によって粛清された東方典礼カトリック教会の聖職者たちは迫害を受けた。重労働に送られたり、正教会への改宗を強制されたりした。1947年まで、コロムィーヤの教会の建物は一つの以外はすべて閉鎖され、改装または再建されて他の目的に使用された。

1951年にレーニンの記念碑がコロムィーヤ市場広場に建てられた[15]

コロムィーヤにおける大規模な住宅建設は1960年代に始まった。

ソ連末期のいわゆるペレストロイカの時期に、コロムィーヤではウクライナの国家復興が開始した。1990年8月17日にレーニンの記念碑は解体され、解体中にユダヤ人墓地の墓石が記念碑の台座から発見された[15]

独立ウクライナ

2009年にウクライナの「Fokus」雑誌によるとコロムィーヤが「ウクライナの一番安全な都市」として定まれていた[16][17]

人口

民族

人口推移
人口±%
187017,679—    
188023,109+30.7%
189030,235+30.8%
190034,188+13.1%
191042,676+24.8%
193938,300−10.3%
195931,303−18.3%
197041,054+31.2%
197952,146+27.0%
198963,323+21.4%
200161,989−2.1%
200561,210−1.3%
201261,429+0.4%
201461,350−0.1%
201561,236−0.2%
201661,210−0.0%
201760,941−0.4%

歴史的な人口統計学データによるコロムィーヤ住民の民族:

1959[18] 1989[19] 2001[19]
ウクライナ人  72,2 %  86,5 %  92,4 %
ロシア人  18,8 %  11,0 %  5,0 %
ポーランド人  4,2 %  0,9 %  0,5 %
ベラルーシ人  1,9 %  0,5 %  0,3 %
ユダヤ人  3,2 %  0,6 %  0,1 %

2001年の人口統計学データによるコロムィーヤ住民の民族[20]:

民族 人口 パーセンテージ
ウクライナ人 56749 92,35 %
ロシア人 3078 5,01 %
ポーランド人 301 0,49 %
ベラルーシ人 179 0,29 %
モルドバ人 61 0,10 %
その他 1080 1,76 %

言語

2001年の人口統計学データによるコロムィーヤ住民の母語[21]:

言語 人口 パーセンテージ
ウクライナ語 57214 93,11 %
ロシア語 3075 5,00 %
ポーランド語 89 0,14 %
ベラルーシ語 82 0,13 %
モルドバ語 45 0,07 %
その他 943 1,53 %

文化

イースター・エッグ美術館

コロムィーヤの名は、コロミイカという踊りと、コロミイカとも呼ばれる短い歌に由来している[22]

コロムィーヤにはイースター・エッグ美術館がある[23]

教会

コロムィーヤにはいくつかの教会が位置する。

教育

1892年にコロムィーヤウクライナギムナジウムが開設された[24]。2025年現在コロムィーヤには、中等学校が11校[25]、幼稚園が11園、そして孤児院が1つある[26]

姉妹都市

コロムィーヤ出身の人物

脚注

  1. ^ 2022年6月1日時点の人口統計 // イヴァーノ=フランキーウシク州統計局”. 2015年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月21日閲覧。
  2. ^ І. Монолатій. Коломия давня і нова: міркування про походження та історію міста // Коломия з минулого в сьогодення. / Кол. авт.: В. Ковтун, І. Монолатій. — Коломия: Вік, 2005. — С. 19
  3. ^ Янко М.Т. (1998). Топонімічний словник України: словник-довідник. https://archive.org/details/topon1998/page/n180/mode/1up 
  4. ^ Галицько-Волинський Літопис. Іпатіївський список” (ウクライナ語). 2013年5月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月3日閲覧。
  5. ^ М. Грушевський. Історія України-Руси. — Т. ІІІ. — С. 57.
  6. ^ Wajgiel L. Rys miasta Kołomyi Archived 22 January 2019[Date mismatch] at the Wayback Machine..
  7. ^ Опубліковано світлини залізничних станцій”. 4 квітня 2016時点のオリジナルよりアーカイブ。21 березня 2016閲覧。
  8. ^ Полянський О. Західна Україна у двох революціях. — Тернопіль : Джура, 1998. — іл. — C. 23
  9. ^ Литвин М., Науменко К. Історія ЗУНР. — Львів : Інститут українознавства НАНУ; видавнича фірма «Олір», 1995. — іл. — C. 23. — ISBN 5-7707-7867-9.
  10. ^ Лев Шанківський. Стрий і Стрийщина у визвольній війні (1918—1920)”. 5 листопада 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。5 листопада 2013閲覧。
  11. ^ Монолатій, Іван (2017). Перша республіка: Коломия в часи ЗУНР. Коломия: Лілея-НВ. pp. 95. ISBN 9666684225 
  12. ^ Шрамченко С. Свято Українського Моря Archived 2020年11月1日, at the Wayback Machine. // Свобода, Джерсі Сіті, 1956. — Ч. 80
  13. ^ Савчук (26 травня 2016). “Українські еліти Коломиї: провідники українського життя міжвоєнного періоду (1919 – 1939 рр.)”. dzerkalo.media. 20 серпня 2016時点のオリジナルよりアーカイブ。10 серпня 2016閲覧。
  14. ^ В. Бешанов. Червоний бліцкриг”. 1 червня 2017時点のオリジナルよりアーカイブ。17 квітня 2017閲覧。
  15. ^ a b Площа Ринок (пам'ятники), Коломия”. 15 лютого 2016時点のオリジナルよりアーカイブ。29 вересня 2014閲覧。
  16. ^ http://news.liga.net/news/N0922393.html Archived 16 June 2009[Date mismatch] at the Wayback Machine. (ロシア語)
  17. ^ http://focus.in.ua/society/43971 Archived 14 June 2009[Date mismatch] at the Wayback Machine. (ロシア語)
  18. ^ Кабузан В. М. — Украинцы в мире динамика численности и расселения. 20-е годы XVIII века — 1989 год Форм. этн. и политических границ укр. этноса. Ин-т рос. истории РАН. М. Наука, 2006. Archived 5 October 2013[Date mismatch] at the Wayback Machine.
  19. ^ a b кількість та склад населення України Archived 4 March 2016[Date mismatch] at the Wayback Machine. за підсумками Всеукраїнського перепису населення 2001 року
  20. ^ Розподіл населення за національністю та рідною мовою, Івано-Франківська область (осіб) - Регіон, Національність, Рік , Вказали у якості рідної мову”. 26 липня 2021時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月3日閲覧。
  21. ^ Розподіл населення за національністю та рідною мовою, Івано-Франківська область (осіб) - Регіон, Національність, Рік , Вказали у якості рідної мову”. 26 липня 2021時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月3日閲覧。
  22. ^ Ukrainian Dance. A cross-cultural approach. Mc Farland Company. (2012). p. 259 
  23. ^ GNV管理者 (2021年2月16日). “ウクライナのイースター・エッグ美術館”. GNV. 2025年1月17日閲覧。
  24. ^ Коломийська гімназія імені Михайла Грушевського”. 19 квітня 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。13 липня 2018閲覧。
  25. ^ Управління освіти Коломийської міської ради”. 9 травня 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。25 червня 2014閲覧。
  26. ^ Коломийський дитячий будинок-інтернат”. 7 жовтня 2015時点のオリジナルよりアーカイブ。25 червня 2014閲覧。