ピョートル・シャフィーロフ
ピョートル・パヴロヴィチ・シャフィーロフ男爵(ロシア語: Пётр Павлович Шафиров、1670年 - 1739年3月1日)は、ロシア帝国の政治家、外相。
生涯
ユダヤ人とされている[1]。外国語の知識に秀で、ロシア外務省の主翻訳官を長年務め、後にはピョートル1世の旅に度々同伴した[1]。その後、男爵に叙された[1]。1711年の露土戦争ではプルト条約の締結に成功したが、ピョートル1世がシャフィーロフを人質として残したため、和約が破られるとイェディグレ要塞(英語版)に投獄された[1]。しかし、イギリス大使とオランダ大使の助けもあってスウェーデン王カール12世に競り勝ち、1713年6月のアドリアノープル条約で露土間の友好を再確認した[1]。
1718年には元老院(英語版)議員に任命されたものの、1723年に横領と不品行の廉で全ての職を解かれて死刑に処され、死刑執行の直前に追放に軽減された[1]。追放先も最初はシベリアだったが後にノヴゴロドに変更された[1]。1725年にピョートル1世が死去すると釈放され、ピョートル1世の伝記を書くよう命じられた[1]。以降アンドレイ・オステルマンが対抗し続けたためシャフィーロフが再び官職にありつく道は閉ざされた[1]。
著作
1717年、カール12世との戦争についての著作を書いた[1]。
脚注
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