ファドリ・ゾン

ファドリ・ゾン
Fadli Zon
生年月日 (1971-06-01) 1971年6月1日(53歳)
出生地 インドネシアの旗 インドネシアジャカルタ
出身校 インドネシア大学
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス
現職 政治家、実業家、ジャーナリスト
所属政党 グリンドラ党
配偶者 キャサリン・グレース
子女 2人
親族 ゾン・ハルジョ(父)
エリダ・ヤティム(母)

インドネシアの旗 インドネシア共和国
初代文化大臣
内閣 メラプティ内閣
在任期間 2024年10月21日 -
大統領 プラボウォ・スビアント

国民議会議長
在任期間 2017年12月11日 - 2018年1月15日
2015年12月16日 - 2016年1月11日

国民議会副議長
在任期間 2014年10月2日 - 2019年10月1日
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ファドリ・ゾンインドネシア語: Fadli Zon, 1971年6月1日 - )は、インドネシア政治家実業家ジャーナリスト。同国初代文化大臣。国民議会議長、国民議会副議長を務めた。

経歴

1971年6月1日インドネシアジャカルタにて、西スマトラ州ミナンカバウ出身のゾン・ハルジョとエリダ・ヤティムの3人兄弟の長男として誕生する[1]。父親は、ファドリが10代の時に亡くなった。

ボゴールチサルア英語版で育ち、チベウラム3州立小学校に通い、ジャカルタの中学校に転校。その後、東ジャカルタ州の高等学校に2年間通い、1989年から1990年までアメリカン・フィールド・サービスの奨学金を得て、アメリカ合衆国テキサス州サンアントニオハーランデール高校英語版に留学、首席で卒業した。

その後、ファドリはインドネシア大学でロシア文学を専攻。学内外のさまざまな組織で活躍した。1992年から1993年までインドネシア大学文学部の学生評議会教育局長。文学部学生評議会事務局長、学生評議会対外関係委員会委員長。また、同大学の文学劇場のメンバーでもあった。学外では、1993年から1995年までインドネシア国際学生協会事務局長兼会長。1996年から1999年までインドネシア全国青年委員会の中央委員、イスラム青年運動の中央委員を務め、1996年にはアジア宗教平和会議のメンバーでもあった。

1994年、ファドリはインドネシア大学のMawapres Iと国家レベルのStudent Achievement IIIに選ばれた。同年、マレーシアで開催されたASEAN Varsities Debate IVでインドネシア学生代表団を率いた。

2002年ジョン・ハリスとロバート・ウェイドの指導の下、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカルサイエンスに入学。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカルサイエンスで開発研究の理学修士号を取得。2016年、インドネシア大学文化科学部歴史学科で博士号を取得。

まだ学生だった1990年から1991年にかけて、ファドリはヒンドゥー教を侮蔑する文章を掲載することで知られていた『Tabloid IQRA』と『Suara Hidayatullah』というイスラム志向の2つの出版物に寄稿した[2]。高校の同級生であったジャーナリストのジクルラ・W・プラムディヤに依頼されて寄稿した。ファドリの最初の記事は、ムスリム組織ムハマディヤのルクマン・ハルンへのインタビューであり、Tabloid IQRAから出版された。1990年から1991年にかけて、ファドリは若者向けの雑誌『Nona』と『Hai』にも寄稿した。1991年には日刊紙Harian Terbitに寄稿した。1992年から1994年まで、政治雑誌『Gema Angkatan 45』の編集者を務めた。

1993年、文芸誌『ホリソン』の編集委員に加わる。1995年から1996年まで、隔週刊政治ニュース誌『Tajuk』の編集者。1997年、雑誌『Visi』の編集長に就任。2007年、『Tani Merdeka』誌編集委員、2011年、『Tabloid Gema Indonesia Raya』誌編集長[3]

1997年に卒業したファドリは、当時国の最高立法府であった国民協議会に、青年団体の代表として任命された。1998年3月、全国で反政府デモが高まったにもかかわらず、国民協議会は全会一致で当時のスハルト大統領を7期目の再選させた。1998年5月にスハルトが辞任に追い込まれた後、1999年に自由選挙が実施され、ファドリは国民協議会の議席を失った。

スハルト政権崩壊後、ファドリはイスラム教を基盤とする月星党英語版の創設者の一人であり、一時はその党首の一人となったが、2001年に辞任した。

2007年11月、ファドリはプラボウォ・スビアントの弟で実業家のハシム・ジョヨハディクスモ英語版と知り合った[4]。ハシム、ファドリ、そして当時ゴルカル党員だったプラボウォは2007年12月にグリンドラ党を結成し、2009年インドネシア議会選挙英語版に出馬、4.46%の得票率で26議席を獲得した。ファドリ自身は議席を獲得できず、西スマトラ州選挙区第2区で11,077票を獲得し、議席獲得者の得た票数は21,348票であった。

2014年インドネシア議会選挙では、今度は西ジャワ州選挙区から国会議員選挙に再出馬し、79,074票を獲得して国民議会の議席を確保した。2014年から2019年までの期間、国民議会副議長に任命された。2015年から2016年、2017年から2018年には国民議会議長代行を務めた。様々な国際、地域、二国間フォーラムでインドネシア議員代表団を率いている。

2019年インドネシア総選挙では国会議員に再選され、2019年から2024年の期間、下院議会間協力委員会の委員長、および下院国防・外交・情報委員会の委員に任命された。2024年インドネシア総選挙英語版では、149,258票を獲得して3期目の再選を果たした[5]

2008年よりグリンドラ党中央委員会副委員長、グリンドラ最高指導者会議副議長を務め、現在は2020年から2025年までの任期を務める。

2024年10月21日、プラボウォ・スビアント大統領によって、ナディム・マカリムが務めていた教育文化研究技術大臣が分離し、文化大臣に任命された。

脚注