フォックス=ノース連立内閣

フォックス=ノース連立内閣
1783年
フォックス(左)とノース(右)
成立年月日1783年4月2日
終了年月日1783年12月17日
組織
国王ジョージ3世
首相ポートランド公爵
総閣僚数15人
与党
  • フォックス派英語版
  • ノース派
議会における地位連立政権
野党ピット派
野党党首小ピット
詳細
議会任期第15回グレートブリテン議会
前内閣シェルバーン伯爵内閣
次内閣第1次ピット内閣
ジェームズ・ギルレイによる『ホイッグ党のための断頭台』(A Block for the Wigs、1783年)。右から順にフォックス、ノース、エドマンド・バークケッペル子爵ストーモント子爵。中央の胸像はジョージ3世。

フォックス=ノース連立内閣(フォックス=ノースれんりつないかく、英語: Fox–North coalition)は、1783年に成立したグレートブリテン王国の内閣[1]。名前が示す通り、チャールズ・ジェームズ・フォックスノース卿を支持する党派が連立して成立した内閣である。公式の首相は1783年4月2日に就任したポートランド公爵である。

フォックスはホイッグ党出身でノースは名目上ではトーリー党に属したが、2人ともシェルバーン伯爵内閣に入閣せず野党になっていたため、庶民院で手を組んで倒閣した。

国王ジョージ3世はフォックス=ノース連立内閣、特にフォックスをひどく嫌い、小ピットに組閣の大命を数度与えたが、その時点では組閣できなかったため、ジョージ3世はフォックスとノースの組閣を阻止できず、パトロネージュを拒否するぐらいしかできなかった。

内閣は1783年9月3日にパリ条約を締結して、アメリカ独立戦争を正式に終結させた。さらに小ピットが野党の一員として、汚職と腐敗選挙区を対処するための選挙法改革案を提出した。この改革案は議会で却下されたが、閣内分裂を引き起こすこととなった。

同時期にはイギリス東インド会社が財政問題を抱えており、フォックスは解決策として国有化を主張した。国有化を果たすことで、政府は支持を維持するために任命できる官職が増えることとなる。東インド法案は庶民院を通過したが、ジョージ3世は大反対のままであり、貴族院に対し賛成票を投じた貴族を敵とみなすと通告した。そして、法案が1783年12月17日に否決されると、ジョージ3世は即座に内閣を罷免、小ピットによる第1次ピット内閣が成立することとなった。

フォックスとノースは罷免された後でも庶民院で闘争を続け、小ピットの法案を否決することで辞任を迫ろうとしたが、小ピットは辞任を拒否した。世論は請願、バラ法人英語版の議決、ロンドン大衆の行動をみるに、小ピットを支持しており、1784年3月の総選挙では与党が大勝した。

内閣

太字は閣僚、それ以外は閣外大臣。

役職 肖像 名前 就任日
第一大蔵卿
貴族院院内総務
ポートランド公爵 1783年4月2日
内務大臣
庶民院院内総務
ノース卿 1783年4月2日
外務大臣
庶民院院内総務
チャールズ・ジェームズ・フォックス 1783年4月2日
枢密院議長 ストーモント子爵 1783年4月2日
大法官 委員会制 1783年4月9日
王璽尚書 カーライル伯爵 1783年4月2日
海軍卿英語版 ケッペル子爵 1783年4月8日
財務大臣 ジョン・キャヴェンディッシュ卿英語版 1783年4月5日
補給庁長官英語版 タウンゼンド子爵 1783年4月28日[2]
商務委員会第一卿 グランサム男爵 前内閣より続投
ランカスター公領大臣 アシュバートン男爵 前内閣より続投
ダービー伯爵 1783年4月29日
海軍会計長官英語版 チャールズ・タウンゼンド英語版 1783年4月11日
戦時大臣 リチャード・フィッツパトリック英語版 1783年4月11日
陸軍支払長官英語版 エドマンド・バーク 1783年4月8日
アイルランド総督 ノーティントン伯爵 1783年

脚注

  1. ^ Chris Cook and John Stevenson, British Historical Facts 1760–1830, Macmillan, 1980.
  2. ^ Ordnance Masters 1544-1855 | Institute of Historical Research

参考文献

先代
シェルバーン伯爵内閣
グレートブリテン王国の内閣
1783年
次代
第1次ピット内閣