プブリウス・クラウディウス・プルケル (紀元前184年の執政官)
プブリウス・クラウディウス・プルケル P. Claudius Ap. f. P. n. Pulcher[1] | |
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出生 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
出身階級 | パトリキ |
一族 | プルケル |
氏族 | クラウディウス氏族 |
官職 |
アエディリス・クルリス(紀元前189年) プラエトル(タレントゥム)(紀元前187年?) カレス植民委員(紀元前185年) コンスル(リグリア)(紀元前184年) グラウィスカエ植民三人委員(紀元前181年) |
プブリウス・クラウディウス・プルケル(ラテン語: Publius Claudius Pulcher)は、共和政ローマの政務官。紀元前184年にコンスル(執政官)を務めた。父はアッピウス・クラウディウス・プルケル、兄弟には父と同名のアッピウス・クラウディウス・プルケルがいる。
経歴
紀元前189年、アエディリス・クルリス(上級按察官)を務めた[2]。ティトゥス・リウィウスによれば、穀物業者に課した罰金で金の盾を作り、カピトリヌスに飾ったという[3]。
紀元前187年、タレントゥム担当プラエトルを務めた[4]。リウィウスは、紀元前188年のプラエトルをプブリウスだとするが、おそらく兄弟のアッピウスのことである[5]。
紀元前185年、カレス市に移民を追加する事業を手がけた[6]。リウィウスによると、この年、コンスル選挙に立候補したが、コンスルを務めていた兄弟のアッピウスが早めに帰国し、反対派の声をものともせず強力にサポートしたという[7]。対立候補はルキウス・アエミリウス・パウッルス・マケドニクス、クィントゥス・ファビウス・ラベオ、そして前187年のプラエトルの一人、セルウィウス・スルピキウス・ガルバで、彼らは一度以上落選したことがあり、ラベオが一番人気であったが、プブリウスは最初のこの選挙で当選することができた[8]
紀元前184年、ルキウス・ポルキウス・リキヌスと共にコンスルを務め、2人でリグリアを担当した[1]。
紀元前181年、ガイウス・カルプルニウス・ピソ (紀元前180年の執政官)らと共に、グラウィスカエに植民する三人委員の一人に選ばれている[9](エトルリア地方沿岸部)。
家族
- アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官):父
- アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前185年の執政官):兄弟
- ガイウス・クラウディウス・プルケル (紀元前177年の執政官):兄弟
出典
参考文献
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
- Richard J. Evans (1991). “CANDIDATES AND COMPETITION IN CONSULAR ELECTIONS AT ROME BETWEEN 218 AND 49 BC”. Acta Classica (Classical Association of South Africa) 34: 111-136. JSTOR 24591936.
公職 | ||
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先代 アッピウス・クラウディウス・プルケル マルクス・センプロニウス・トゥディタヌス |
執政官 同僚:ルキウス・ポルキウス・リキヌス 紀元前184年 |
次代 クィントゥス・ファビウス・ラベオ マルクス・クラウディウス・マルケッルス |