マリオ・ザガロ
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1974年ブラジル代表監督時代 | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
マリオ・ジョルジ・ロボ・ザガロ Mário Jorge Lobo Zagallo | |||||
愛称 |
Velho Lobo (Old Wolf), The Professor | |||||
ラテン文字 | Mario Zagallo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ブラジル | |||||
生年月日 | 1931年8月9日 | |||||
出身地 | マセイオ | |||||
没年月日 | 2024年1月5日(92歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 左足 | |||||
代表歴 | ||||||
1958-1964 | ブラジル | 36 | (5) | |||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
マリオ・ジョルジ・ロボ・ザガロ(Mário Jorge Lobo Zagallo, 1931年8月9日 - 2024年1月5日)は、ブラジル・アラゴアス州出身の元サッカー選手・サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード。
FIFAワールドカップにおいて選手時代に2度、監督・コーチとして1度の優勝、1度の準優勝経験を持つ。
来歴
選手として
1950年代前半、CRフラメンゴの左ウイングとして頭角を現したザガロは、フラメンゴ、ボタフォゴ時代も合計5回のリオ州選手権優勝を果たした[1]。
ブラジル代表に選出され、1958年のW杯スウェーデン大会と1962年のW杯チリ大会の連続優勝の偉業を達成したチームにおいて、ウイングとして常に先発メンバーに名を連ねた。体格面ではさほど恵まれてはいなかったが、足元の技術は元より、守備時に前線から真っ先に戻ってきて自陣を固める、献身的なプレイヤーだった。
代表選手としては37試合に出場し、30勝4分3敗の好成績を残した。
指導者として
1965年に現役を引退した後は指導者に転身し、自身も選手としてプレーしたボタフォゴFRなどブラジル国内の有力クラブの監督を歴任。またナショナルチームにも度々携わり、1970年のW杯メキシコ大会ではリヴェリーノ、ペレらをまとめ上げて優勝を果たし[1]、初の選手と指導者双方でのワールドカップのタイトルを獲得した(その後、選手と指導者双方で優勝したのはフランツ・ベッケンバウアーとディディエ・デシャンである)。
1989年にはUAE代表監督に就任し、見事1990 FIFAワールドカップ・アジア予選を勝ち抜き、同代表をW杯初出場に導いた[2][3]。
その後1994年のW杯アメリカ大会では、愛弟子でもあるカルロス・アルベルト・パレイラ監督をアシスタントコーチとして支えチームを優勝に導いた[1]。大会後、代表監督に復帰、オリンピック世代の代表監督も兼任した[1]。1995年のコパ・アメリカ以降は次の1998 FIFAワールドカップに向け、年齢を考慮した選手選考をするという明確な方針があり、これまで召集されてきた一部のベテラン選手たちが代表を外れた[1]。1996年のアトランタオリンピックでは3位に終わった。
1998年のW杯フランス大会ではアシスタントコーチにジーコを配して再び指揮を執り、決勝でフランスに敗れたはしたものの準優勝を果たした。ブラジル代表の監督・コーチとして臨んだ試合は合計154試合に上るが、うち110勝と33の引き分け、敗戦はたったの11試合しかない。(マイアミの奇跡が奇跡と呼ばれる一つの理由でもある)選手として、指導者として4度の世界王者に輝いたザガロは、多くの後輩たちから「教授」と呼ばれ尊敬を集める存在となっている。
監督時代には数々の輝かしい実績を残しているが、その守備寄りな戦術ゆえ、攻撃的なサッカーを好むブラジル国内ではしばしば批判の対象となった。しかし1994年、98年のW杯に見られた2人のボランチと両サイドバックが攻守に献身するサッカーは、ボール支配率を重視する現代サッカーを体現するものであり、優勝・準優勝という結果でもってその理念を証明して見せた。彼が重用した守備的なポジションのプレイヤーであるカフー、ロベルト・カルロスといった選手たちは、その後現代を代表する名選手として世界的な名声を手に入れ、また2006年7月から2010年7月まではザガロのチームで長く主将を務めたドゥンガが代表チームを指揮していた。
2001年のフラメンゴを最後に監督業からは勇退。W杯日韓大会でブラジル代表が5度目の優勝を遂げた直後の2002年11月20日、韓国代表との親善試合でブラジル代表監督に一時的に復帰し、3-2の勝利で自身の代表監督100勝目を飾った。
2024年1月5日にリオデジャネイロで死去[4]。92歳没[5][6]。インスタグラムで公表された[7]。
所属クラブ
選手時代
- アメリカFC (リオデジャネイロ州) 1948-1949
- CRフラメンゴ 1950-1958
- ボタフォゴFR 1958-1965
指導者時代
- クラブ監督
- ボタフォゴFR 1967-1970, 1975, 1977-1978, 1986-1987
- フルミネンセFC 1971, 1979-1980
- CRフラメンゴ 1972-1973, 1984-1985, 2001
- アル・ヒラル 1978-1979
- CRヴァスコ・ダ・ガマ 1980-1981, 1990-1991
- アソシアソン・ポルトゥゲーザ・ジ・デスポルトス 1999
- 代表監督
- ブラジル代表 (アシスタント) 1991-1994, 2003-2006
- ブラジル代表 1970-1974, 1994-1998, 2002
- クウェート代表 1976-1978
- サウジアラビア代表 1981-1984
- UAE代表 1989-1990
代表歴
出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 33試合 5得点(1958年-1964年)[8]
ブラジル代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1958 | 9 | 3 |
1959 | 5 | 0 |
1960 | 2 | 0 |
1961 | 2 | 0 |
1962 | 9 | 2 |
1963 | 5 | 0 |
1964 | 1 | 0 |
通算 | 33 | 5 |
獲得タイトル
選手時代
- フラメンゴ
- カンピオナート・カリオカ : 1953, 1954, 1955
- ボタフォゴ
- カンピオナート・カリオカ : 1961, 1962
- ブラジル代表
- FIFAワールドカップ : 1958, 1962
監督時代
- ボタフォゴ
- タッサ・ブラジル : 1968
- カンピオナート・カリオカ : 1967, 1968
- フラメンゴ
- コパ・ドス・カンピオンイス : 2001
- カンピオナート・カリオカ : 1972, 2001
- ブラジル代表
脚注
- ^ a b c d e Sports Graphic Number 1995/3/10 Number361 p58-59
- ^ “「W杯史上最も偉大なチャンピオン」逝去したブラジルの名将ザガロに国内のレジェンドや各国メディアから賛辞(THE DIGEST)”. Yahoo!ニュース. 2024年6月13日閲覧。
- ^ “マリオ・ザガロが92歳で死去”. FIFA. 2024年6月13日閲覧。
- ^ “マリオ・ザガロさん死去 サッカー元ブラジル代表―92歳”. 時事通信 (2024年1月6日). 2024年1月6日閲覧。
- ^ “Morre Zagallo, o maior vencedor das Copas do Mundo, aos 92 anos” (ポルトガル語). Folha de S.Paulo (2024年1月6日). 2024年1月6日閲覧。
- ^ “Morre Zagallo, uma das lendas do futebol brasileiro” (ポルトガル語). G1 (2024年1月6日). 2024年1月6日閲覧。
- ^ “サッカー元ブラジル代表・ザガロさん死去 70年、選手と監督でW杯優勝”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2024年1月7日) 2024年1月7日閲覧。
- ^ マリオ・ザガロ - National-Football-Teams.com
外部リンク
- マリオ・ザガロ - Olympedia
- マリオ・ザガロ - National-Football-Teams.com
- マリオ・ザガロ - FootballDatabase.eu
- マリオ・ザガロ - Transfermarkt.comによる選手データ
- マリオ・ザガロ - Transfermarkt.comによる指導者データ
- マリオ・ザガロ - FIFA主催大会成績
- マリオ・ザガロ - レキップ
- マリオ・ザガロ - playmakerstats.com
- マリオ・ザガロ - Munzinger Sports Archives
- FIFA.com - Entrenador clásico: Mario Zagallo