伊豆諸島
伊豆諸島の地図 | |
地理 | |
---|---|
場所 | 太平洋 |
島数 | 約100 |
主要な島 | 大島、利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島 |
面積 | 297 km2 (115 sq mi)[1] |
長さ | 550 km (342 mi)[1] |
最高標高 | 854 m (2802 ft)[1] |
最高峰 | 西山(八丈島) |
行政 | |
都道府県 | 東京都島嶼部 |
支庁 |
大島支庁 三宅支庁 八丈支庁 |
町村 |
大島町 八丈町 利島村 新島村 神津島村 三宅村 御蔵島村 青ヶ島村 |
人口統計 | |
人口 | 約3万人[1] |
言語 | 日本語 |
追加情報 | |
時間帯 |
伊豆諸島(いずしょとう)は、伊豆半島東南沖の太平洋(フィリピン海)を南へ連なる諸島。最北端の伊豆大島[2]から最南端の孀婦岩 [3]まで、9つの有人島[4]と無人島、岩礁など合計100余りからなる。行政区画としては東京都島嶼部のうち、さらに南の小笠原諸島を除く島々である。
有人島はいずれも伊豆諸島北部で、伊豆大島のほか利島、新島、式根島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島がある。このうち式根島と青ヶ島以外を伊豆七島と呼ぶこともある。かつては鵜渡根島や八丈小島、鳥島にも定住者がいたが、現在は無人島になっている。地内島、早島、大野原島、藺灘波島、ベヨネース列岩、須美寿島、孀婦岩などは有史以来の無人島である。最南部のベヨネース列岩、須美寿島、鳥島、孀婦岩は豆南諸島(ずなんしょとう)とも呼ばれる。
陸上火山である三原山(大島)、海底火山の明神礁などでは火山活動が見られる。
常春と呼ばれる気候条件下にあり、四方を海に囲まれ、各島それぞれ異なる自然や風土を持つ。島寿司や明日葉などが名産であるほか、観光地としても知られ、温泉や登山、天体観測、釣りやサーフィンなどのマリンレジャーを楽しめる。
八丈島以北が富士箱根伊豆国立公園に属する[5]。
地理
最北に位置する大島までは、東京都区部(伊豆諸島と本土を結ぶフェリーが発着する東京港竹芝桟橋)から約100kmで、静岡県に属する伊豆半島(約30㎞)や神奈川県、千葉県南部(房総半島)の方が近い[4]。明治初期は伊豆半島とともに韮山県や足柄県、静岡県に編入されたが、1878年に当時の東京府所管とされた[4]。
大島は伊豆半島の最南端である石廊崎よりも北にあり、相模灘の南、房総半島の南西にあり、天気の良い夜には伊豆半島の海岸沿いを走る車のライトも見える。伊豆諸島沖最南端の孀婦岩は東京都区部から650キロメートルは離れている。
大島からから南西へ利島、新島、式根島、神津島と並んでいて、銭洲まで続く。海面下も続くこの高まりは銭洲海嶺と呼ばれる。神津島の東南東40km、大島の南南東60kmほどのところに三宅島があり、三宅島の南20kmほどのところに御蔵島がある。御蔵島の南方100kmほどのところにある瓢箪型をした島が八丈島で、八丈島の南70kmほどのところに青ヶ島がある。青ヶ島が伊豆諸島における有人島の南限で、これより南にある豆南諸島はいずれも無人島か人が住めない岩礁である。
伊豆諸島は南北に長いので、気象・水産関係では北部と南部に分けて表すことがある。その場合、伊豆諸島北部は大島から神津島まで、伊豆諸島南部は三宅島から青ヶ島までを指す。さらに詳しく表すときは「伊豆諸島南部」三宅島地方などと表すこともある。
黒潮は伊豆諸島を通過する付近で幅50- 100km、流速7ノット(時速約13km)にもなる。通常は三宅島と八丈島の間を流れることが多いが、蛇行して八丈島の南や大島近海を通過することもある。
伊豆諸島の島々はいずれも火山もしくはカルデラ式海底火山の外輪山が海面より高くなったものである。特に青ヶ島は世界でも珍しく一見して判るほどの典型的な二重式火山で、火口の中に丸山という小さな火山がある。御蔵島のような古く安定した島もあるが、1983年と2000年の三宅島や1986年の大島のように活発な火山活動を繰り返している島もある。
行政区画
行政区画は全島が東京都にあり、出先機関として東京都庁の下部組織である大島支庁、三宅支庁、八丈支庁が置かれている。東京都の島嶼地域は東京都島嶼部と呼ばれるが、東京都では「嶼」が常用漢字外のため「島しょ」と表記している。
日本では町や村は郡の下に続くが、伊豆諸島は例外として郡が存在しない。したがって正式な住所の表示は「東京都大島町」のようになる。八丈町や三宅村では「東京都八丈島八丈町」という表記が一般的に使用されている。
各支庁の所管を以下に示す。括弧内は、それぞれの町村の区域にある主要な島である。
このほか、ベヨネース列岩から孀婦岩までの島嶼は青ヶ島村と八丈町との間の所属係争のため、東京都が直接管轄している。これらの無人島は日本の地方自治の最小単位である市町村にも属さない数少ない例外である。
伊豆諸島は、歴史的には駿河国、のちに伊豆国に属しており、中世までは伊豆国賀茂郡三島郷の内であった。近代以降はその流れを汲む静岡県には属さず、東京都に属している。実際、いったんは静岡県に属してから東京府(当時)に移管されている。これは東京の財政が静岡より余裕があったからという説もあるが、後述のように江戸時代から航路が江戸の方に開けており、物的・人的交流ともに江戸(東京)の方がより緊密であったことが最も大きな理由であると言われている(「#歴史」の節を参照)。なお、明治時代に静岡県に編入された際、島民や商人を中心として東京府への帰属を嘆願する運動も起きている。
地域言語
地質
伊豆諸島はフィリピン海プレートの東縁にあり、フィリピン海プレートに太平洋プレートが沈み込む伊豆・小笠原海溝が島々の東方沖を南北に走っている。すなわち、伊豆諸島は伊豆・小笠原・マリアナ島弧と呼ばれる島弧の一部をなす。プレートの沈み込みに伴う火成活動で火山島からなる島弧が発達した。島々を構成する岩石は伊豆大島三原山や三宅島雄山を代表に玄武岩が多いが、新島と式根島は世界的にも珍しいコーガ石を産する流紋岩であり、神津島も黒曜石を伴う流紋岩からなる。
島々
生物相
伊豆諸島にはミクラミヤマクワガタやオカダトカゲなどの固有種も多い。健康野菜として注目を集めているアシタバ(明日葉)は伊豆諸島が原産地といわれている。海では、イルカやクジラを見ることもでき、鳥島はアホウドリの繁殖地として知られている。
ただし、より南の小笠原諸島とは生物相において大きく異なっている[6]。小笠原諸島の生物相は固有種が非常に多く、特定の分類群では規模の大きい適応放散が見られ、他方では大きく欠けた生物群がいくつもあるという、海洋島によく見られる生物相の特徴を持つ。それに対し、伊豆諸島のそれはむしろ日本本土の生物相に非常に近い。例えばヘビは小笠原諸島にはいないが、伊豆諸島にはシマヘビやアオダイショウ、ジムグリ、マムシなどがおり、いずれも本州のものと同種とされている[7]。伊豆諸島のトカゲはオカダトカゲといい、本州のものとは別種であったが、これは最近になって伊豆諸島から伊豆半島まで分布していることが判明した。ただしこれが伊豆半島型の本州と地理的に隔離されてきた証拠と見なすことは必ずしも出来ない。それ以外の日本本土のトカゲも南北2種に分かれていることがさらに近年に確認されている。他にも固有種はあるが、多くは本州に近縁の種を持つ。
いずれにせよ、伊豆諸島の生物相は伊豆半島のそれと密接な関係があり、そして本土の他地域ともごく強い類縁を持っている。例えば伊豆諸島の火山砂礫地にはハチジョウイタドリとシマタヌキランが優占する草原が成立しており、この2種はいずれも伊豆諸島に固有のもの(前者は亜種、後者は種)であるが、シマタヌキランは本州で落葉樹林帯から高山帯に生育するコタヌキランにごく近縁とされており、ハチジョウイタドリの基本変種であるイタドリも日本列島(南限は奄美大島)から中国に分布があるものである[8]。このような草原の植物群落は本州の温帯域より標高の高い部分の植物群落に由来すると見なされている。このことを説明するには過去のある時期に伊豆諸島と本州が同じ陸地にあり、その頃には寒冷な気候で伊豆諸島の位置までが夏緑広葉樹林帯に覆われていたのが、後に海水面が上昇して島となり、隔離によって種分化が進んだと見るのが無難である。このような考え方は昆虫相や陸産貝相の研究からも以前より提起されていたものであり、伊豆半島から伊豆諸島の青ヶ島までを含む巨大な半島が想定され、古伊豆半島という名が与えられている。
人口
伊豆諸島の人口は、日本の離島平均よりもゆっくりと減少している[9]。
年 | 伊豆諸島 | 日本の離島 | 日本の合計 |
---|---|---|---|
1960 | 38,707 | 923,062 | 94,301,623 |
1970 | 32,539 | 736,712 | 104,665,171 |
1980 | 31,902 | 630,536 | 117,060,396 |
1990 | 30,032 | 546,505 | 123,611,167 |
2000 | 28,756 | 472,312 | 126,925,843 |
2005 | 26,242 | 422,712 | 127,767,994 |
歴史
北部に関しては縄文時代から人々が暮らしていた痕跡があり、各島からは縄文遺跡が発見されている。さらに三宅島では弥生時代の遺跡が発見されており、この時代には定住が始まっていたことが窺われる。稲作文化については、遺跡が建設された後、栄えることになる。
公家や武家、僧侶などの高貴な身分の者が流罪によって流されることが多かったため、京の都の文化や風俗が持ち込まれることも多かった。有名な流人としては源為朝らが挙げられる。
江戸時代は天領だった。旧伊豆国の区域ながら、物産の売買などは江戸に置かれた島方会所(しまかたかいしょ)を通じて行われていたため、江戸との繋がりが強かった[4]。このため明治初期に韮山県、足柄県、静岡県の所属となった時期、島民は東京府への移管を望み、静岡県庁でも島と東京の商業上の紛争で東京の裁判所へ出向くことが負担となっており、1878年に東京府に編入されることとなった[4]。
古くは伊豆五島または伊豆八島などと呼ばれていたこともあるようであるが、江戸時代の終わりまでには伊豆七島の名が定着していた。その後はこれが一般化し、伊豆諸島全体を指す言葉としてもしばしば使われている。しかし人が定住している島だけで9島を数える状況と一致しない。
略年表
- 674年:麻績王の子が大島に流罪。
- 680年:駿河国から分けるかたちで伊豆国が設けられる。当時は賀茂郡に属していた[10]。
- 724年(神亀元年):伊豆国を遠流の地として定める。
- 1156年(保元元年):保元の乱で敗れた源為朝が大島に流罪。
- 室町時代~戦国時代:関東管領(山内上杉家)、相模三浦氏、後北条氏へと支配者が変わった。
- 1606年(慶長11年):関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家が八丈島に流罪。公式には最初の八丈流人。
- 江戸時代:江戸幕府の直轄地となる。
- 1698年(元禄11年):英一蝶が三宅島に流罪。将軍徳川綱吉の逝去に伴う大赦により1709年(宝永6年)に許されて江戸へ帰る。
- 1714年(正徳4年):江島生島事件により、歌舞伎役者の生島新五郎が三宅島に(1742年[寛保2年]に赦免)、侍医の奥山交竹院が御蔵島に流罪。
- 1729年(享保14年):奥山交竹院らの尽力により、三宅島の属島扱いされてきた御蔵島が「独立」を果たす。
- 1780年(安永9年)- 1785年(天明5年):青ヶ島で噴火。特に天明5年4月-5月の噴火では202名が八丈島からの救助により避難するも、避難に間に合わなかった132名は全員死亡したと推定される。これ以後、佐々木次郎太夫ら島民が帰還を果たす1835年(天保6年)までの50年間、青ヶ島は無人島となる。
- 1827年(文政10年): - 徳川譜代の旗本・近藤重蔵守重の長男近藤富蔵が、父の地所争いの相手一家7人を殺傷した罪で八丈島に流罪。これが最後の流人となった。
近代以降の沿革
- 明治初年時点では全域が伊豆代官管轄の幕府領であった(24村)。
知行 | 島 | 村数 | 村名 |
---|---|---|---|
幕府領 | 大島 | 6村 | 岡田村、元村、泉津村、野増村、差木地村、波浮港村 |
利島 | 1村 | 利島 | |
新島 | 2村 | 新島本村、若郷村 | |
神津島 | 1村 | 神津島 | |
三宅島 | 5村 | 伊豆村、神着村、伊ヶ谷村、阿古村、坪田村 | |
御蔵島 | 1村 | 御蔵島 | |
八丈島 | 5村 | 大賀郷村、三根村、樫立村、中之郷村、末吉村 | |
八丈小島 | 2村 | 鳥打村、宇津木村 | |
青ヶ島 | 1村 | 青ヶ島 |
- 慶応4年6月29日(1868年8月17日):全域が韮山県の管轄となる。
- 1869年(明治2年):宇喜多氏(宇喜多秀家の子孫)が赦免される。「浮田」および「喜多」の姓を名乗る末裔の一部が秀家らの墓守として現在も残留。
- 明治4年11月14日(1871年12月25日):第1次府県統合により、足柄県の管轄となる[11]。
- 1876年(明治9年)4月18日:第2次府県統合により、静岡県の管轄となる[12]。
- 1878年(明治11年)
- 1880年(明治13年):近藤富蔵が赦免される。その後、八丈島にある一観音堂の堂守として1882年に再渡島し、1887年に83歳で没。
- 1888年(明治21年):玉置半右衛門が東京府から鳥島の無料拝借の許可を得、羽毛採取の目的でアホウドリの乱獲を開始。
- 1902年(明治35年):鳥島で大噴火があり、玉置の人足ら当時の住民125名全員が死亡。玉置自身は家族とともに1893年に東京に移住していたため無事。
- 1908年(明治41年)
- 1923年(大正12年)10月1日:利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島に島嶼町村制施行[15]。
- 1940年(昭和15年)4月1日:島嶼町村制が普通町村制に移行。同時に青ヶ島に普通町村制施行。青ヶ島村(現存)が単独村制施行。
- 1943年(昭和18年)7月1日:東京都制の施行により東京都の管轄となる。
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)5月3日:地方自治法施行により、鳥打村、宇津木村(現・八丈町)が設置される。
- 1951年(昭和26年):絶滅したと思われていたアホウドリが鳥島で再発見される。
- 1952年(昭和26年)4月9日:もく星号墜落事故、乗客・乗員37名全員死亡。
- 1954年(昭和29年)
- 10月1日:三根村・樫立村・中之郷村・末吉村・鳥打村が合併して八丈村が発足(18村)。
- 11月1日:若郷村が新島本村に編入(17村)。
- 1955年(昭和30年)4月1日(2町8村)
- 1956年(昭和31年)2月1日:三宅村・阿古村・坪田村が合併して、改めて三宅村が発足(2町6村)。
- 1963年(昭和38年)8月17日:藤田航空(同年11月に全日空に吸収合併)のデハビランド・ヘロン1B、八丈島空港発羽田空港行きが離陸直後に八丈富士に激突、19名死亡(藤田航空機八丈富士墜落事故)。
- 1965年(昭和40年):群発地震により、鳥島気象観測所が閉鎖。
- 1969年(昭和44年)3月:ライフラインをはじめとする生活条件の厳しさを理由とした八丈小島から八丈島への島民の移住が開始され、同年6月に完了。「全国初の全島民完全移住」として注目された。これ以降、八丈小島は無人島となる。その後、野ヤギ(cf.)の大繁殖が環境問題になる(経緯については別項「八丈小島#生物相」を参照)。
- 1983年(昭和58年):三宅島・雄山の噴火により阿古地区が溶岩流に呑み込まれる。
- 1986年(昭和61年)11月15日:大島の三原山が噴火。この後11月21日に全島避難(約1ヶ月)。
- 1993年(平成5年):東京都島しょ振興公社[16]の協力のもと大島、利島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島を結ぶヘリコミューター路線「東京愛らんどシャトル」の運航を開始。
- 1992年(平成4年)4月1日:新島本村が改称して新島村となる。
- 2000年(平成12年)9月2日:7月から続いていた三宅島・雄山の噴火により、全島避難。
- 2001年(平成13年)8月29日:八丈町が八丈小島における野ヤギの捕獲を開始。
- 2003年(平成15年)10月7日:午前8時27分頃、八丈島空港へ着陸姿勢に入った羽田空港発のエアーニッポン(ANK)821便のボーイング737(乗客乗員62名)が、八丈島東方海上にて海上自衛隊厚木基地所属のP-3C哨戒機(乗員9名)とのニアミス(最接近時の距離、わずか30m)。10月11日に ANK が国土交通省に報告。
- 2005年(平成17年)2月1日:15時 平成12年以来、4年5ヶ月間続いていた三宅島の避難指示が解除される。
- 2008年(平成20年)4月26日:噴火以来7年8ヶ月間、避難指示解除以来3年3ヶ月間途絶えていた羽田空港〜三宅島空港間の航空路が再開される。
産業
島によって少しずつ異なるが、漁業、農業、観光が中心になっている。同じ地域に漁村と農村が共存していると考えたほうが良い島もある。過去には鳥島においてアホウドリの捕獲や鳥糞石(グアノ)の採取も行われていた。
特産物
- くさや:多くの日本人の認識では、代名詞的に当地を代表する特産物である。
- アシタバ(明日葉):八丈草(ハチジョウソウ)とも呼ばれる伊豆諸島原産のセリ科植物。当地の産物としてとりわけよく知られているものの一つである。
- 島寿司
- 島焼酎:狭義の「島焼酎」[注釈 1]。地域に特産の焼酎はこの名で呼ばれ、盛んに醸造されている。島ごとに特徴が異なることから国内を中心にファンも多い。
- 抗火石 - 新島など。
交通
航路
主として下記の港から各島へ東海汽船等の貨客船(水中翼船ボーイング929「ジェットフォイル」)による定期航路がある。季節などによっては臨時航路が設けられることがある。なお、青ヶ島の定期航路は伊豆諸島開発が運用する八丈島からの連絡船のみ。伊豆諸島航路には下田航路を運用するフェリーあぜりあを除きカーフェリーは存在しないため、車両の航送は貨物扱いでしか行えない。
航空路
- 八丈島には羽田空港との間を行き来できる空港があり、全日本空輸(ANA)便として運航している。以前は大島、三宅島と羽田空港を結ぶ便もANAによって運行されていたが、三宅島便は2014年3月31日をもって廃止され、新中央航空に移管された。大島便も2015年10月をもって廃止された。
- 大島、新島、神津島、三宅島には調布飛行場(東京都調布市)との間を行き来するコミューター航空の便が新中央航空によって運航されている。
- 東京愛らんどシャトルという青ヶ島 ⇔ 八丈島 ⇔ 御蔵島 ⇔ 三宅島 ⇔ 大島 ⇔ 利島と各島間を行き来するヘリコミューター(ヘリコプターによるコミューター航空)が東邦航空によって運航されている。ヘリコプターは毎朝八丈島空港から羽田空港へ向かう飛行機の第1便(ANA1892便)が出発した直後に八丈島空港から青ヶ島へ向けて飛び立ち、戻ってきた後に御蔵島へ向けて再出発する。その後、各島を上記のルートで運航し、夕方に御蔵島から八丈島へ戻ってくることで1日の運航を終える。このうち青ヶ島と御蔵島へは、悪天候で船便の欠航が続いている場合などの理由で村役場からの要請があった際に、当日の定期便の前後に臨時便を運航することがある。運賃は決して安くはないが、もともと空港が無い利島・御蔵島・青ヶ島にとっては船便以外の唯一の移動手段であり、特に東京との間の直行便が無く連絡船の就航率も非常に低いという理由から、八丈島〜青ヶ島間の渡航者にとっては貴重な存在となっている(利島も冬は船が欠航することが多い)。
島内交通
鉄道はなく、路線バスやタクシー、レンタカー、レンタサイクルが主な交通手段となる。路線バスがない島の場合は事前予約した宿泊施設に連絡をすれば港に送迎の車が手配される。
路線バス
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d “伊豆諸島(いずしょとう)とは”. コトバンク. 2018年3月31日閲覧。
- ^ 「伊豆-小笠原諸島の砂」p.31『地質ニュース』584号/2003年4月号(産業技術総合研究所地質調査総合センター)
- ^ 「東洋のガラパゴス」小笠原へ~船旅を満喫 時事通信(2023年7月10日閲覧)
- ^ a b c d e [東京探Q]伊豆諸島 なぜ静岡でなく東京?江戸以来 経済圏を形成『読売新聞』朝刊2023年6月19日(都民面)2023年7月10日閲覧
- ^ 環境省 富士箱根伊豆国立公園公式サイトの区域図より
- ^ 以下、柴(2016)
- ^ 内山他(2002)
- ^ 佐竹他(1982),p.24
- ^ a b Gotoh, H.; Maeno, Y.; Takezawa, T.; Murata, T.; Takahashi, N. (2010). “Infrastructure maintenance and disaster prevention measures on isolated Islands: the case of the Izu Islands near tokyo”. In Favro, S.; Brebbia, C. A.. Island Sustainability. WIT transactions on ecology and the environment (Vol. 130). WIT Press. ISBN 978-1-84564-434-5
- ^ 『日本歴史地名大系 22 静岡県の地名』平凡社、2000年。ISBN 4582490220。「伊豆国」の項目(p.75)。
- ^ 明治4年太政官布告第594号 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 明治9年太政官布告第53号 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 明治11年太政官布告第1号 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ a b 『官報』第7352号(明治40年12月28日)「明治40年内務省令第30号」
- ^ 『官報』第3281号(大正12年7月7日)「大正12年内務省令第19号」
- ^ 東京都島しょ振興公社 概要
参考文献
- 柴正博「伊豆半島は南から来たか?」、(2016)、:Journal of Fossil Research, Vol.49(1):p.35-43.
- 内山りゅう他『決定版 日本の両生爬虫類』、(2002)、平凡社
関連項目
- 東京都島嶼部
- 小笠原諸島
- 伊豆・小笠原海溝
- 伊豆諸島を舞台とした作品は、Category:伊豆諸島を舞台とした作品、または個々の島、自治体のページを参照。