兒玉秀雄
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生年月日 | 1876年7月19日 |
出生地 | 日本 山口県 |
没年月日 | 1947年4月7日(70歳没) |
出身校 |
東京帝国大学法科大学政治学科 (現東京大学法学部) |
所属政党 | 研究会 |
称号 |
従二位 旭日大綬章 勲一等瑞宝章 |
配偶者 | 兒玉澤子 |
親族 |
父・児玉源太郎(内務大臣) 義父・寺内正毅(内閣総理大臣) 弟・児玉九一(広島県知事) 義弟・穂積重遠(貴族院議員) 義弟・木戸幸一(内大臣❳ 義兄弟・寺内寿一(陸軍大臣) |
第56代 文部大臣 | |
内閣 | 小磯国昭内閣 |
在任期間 | 1944年2月10日 - 1944年4月7日 |
第53代 内務大臣 | |
内閣 | 米内内閣 |
在任期間 | 1940年1月16日 - 1940年7月22日 |
第41代 逓信大臣 | |
内閣 | 林内閣 |
在任期間 | 1937年2月10日 - 1937年6月4日 |
第8代 拓務大臣 | |
内閣 | 岡田内閣 |
在任期間 | 1934年10月25日 - 1936年3月9日 |
第7代 朝鮮総督府政務総監 | |
在任期間 | 1927年12月23日 - 1929年4月4日 |
その他の職歴 | |
第4代関東長官 (1923年9月26日 - 1927年12月17日) | |
第20代内閣書記官長 (1916年10月9日 - 1918年9月29日) | |
貴族院議員 (1911年7月10日[1] - 1918年7月10日 1919年2月15日[2] - 1946年2月12日[3]) |
児玉 秀雄[注 1](旧字体: 兒玉秀雄、こだま ひでお、明治9年(1876年)7月19日 - 昭和22年(1947年)4月7日)は、日本の政治家、貴族院議員、官僚、伯爵。
経歴
山口県出身で陸軍大将児玉源太郎の嫡男。 千葉県の佐倉英学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)から東京府尋常中学校(後に府立一中を経て現在の東京都立日比谷高等学校)入学、同期に渋沢元治など。
旧制第二高等学校を経て、1900年(明治33年)7月、東京帝国大学法科大学政治学科卒業、大蔵省入省。
同年11月、文官高等試験合格。主に理財局や、臨時煙草製造準備局などを経て、1905年(明治38年)2月、大本営御用掛。日露戦争において遼東守備軍司令部付、満洲軍総司令部付を経て、同年9月、煙草専売局事務官兼大蔵書記官に復帰。1906年、父源太郎の死去により子爵、翌年父の功労により伯爵。
その後は朝鮮に渡り、朝鮮総督府総務部会計課長、秘書官、1910年(明治43年)10月、朝鮮総督府総督官房会計局長、兼秘書官、貴族院議員(伯爵議員)、総務局長などを経て、1916年(大正5年)10月からおよそ2年間、内閣書記官長に就任。
その後も、賞勲局総裁、関東長官、1929年(昭和4年)から朝鮮総督府政務総監。
その後は貴族院議員として貴族院研究会にて活躍。教育方面では、父・源太郎も校長を務めた成城学校(現在の成城中学校・高等学校)で第10代校長を務める。
1934年(昭和9年)10月、岡田内閣の拓務大臣、1937年(昭和12年)2月、林内閣の逓信大臣、1940年(昭和15年)1月~7月、米内内閣の内務大臣、1942年(昭和17年)、陸軍軍政最高顧問として第16軍(今村均司令官)軍政下のジャワに赴任、1944年(昭和19年)、小磯内閣の無任所国務大臣、1945年(昭和20年)2月~4月、同内閣で文部大臣就任。戦後、戦争指導政府の閣僚として公職追放中に病没。
栄典
- 位階
- 1906年(明治39年)8月30日 - 正五位[4]
- 1911年(明治44年)9月11日 - 従四位[5]
- 1916年(大正5年)10月20日 - 正四位[6]
- 1921年(大正10年)10月20日 - 従三位[7]
- 1922年(大正11年)1月20日 - 正三位[8]
- 1931年(昭和6年)2月2日 - 従二位[9]
- 勲章等
- 1907年(明治40年)10月2日 - 伯爵[10]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[11]
- 1915年(大正4年)
- 1918年(大正7年)9月29日 - 勲二等瑞宝章[13]
- 1921年(大正10年)
- 5月1日 - 勲一等瑞宝章
- 7月1日 - 第一回国勢調査記念章[14]
- 1927年(昭和2年)12月17日 - 旭日大綬章[15]
- 1931年(昭和6年)5月1日 - 帝都復興記念章[16]
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[17]
- 1945年(昭和20年)1月15日 - 御紋付木杯[18]
- 外国勲章佩用允許
家族・親族
妻は寺内正毅の娘澤子。弟に児玉友雄、義弟に穂積重遠・藤田嗣雄(嗣治の兄で法制史学者)・木戸幸一らがいる。児玉氏も参照。1人娘貞子の夫児玉忠康(広幡忠朝の三男)を婿養子に迎え、2人の間に生まれた映画監督の児玉進は孫に当たる[21]。
脚注
注釈
- ^ 学術誌、研究書、辞典類における歴史人物としての表記は「児玉秀雄」、『職員録』など存命中の刊行物における表記は正字体に統一の慣例により「兒玉秀雄」、御署名原本における大臣副書の署名は「兒玉秀雄」である。なお父源太郎は大臣副書に「児玉源太郎」と署名していた。
出典
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、19頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、28頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、54頁。
- ^ 『官報』第6953号「叙任及辞令」1906年8月31日。
- ^ 『官報』第8469号「叙任及辞令」1911年9月12日。
- ^ 『官報』第1268号「叙任及辞令」1916年10月21日。
- ^ 『官報』第2767号「叙任及辞令」1921年10月21日。
- ^ 『官報』第2839号「叙任及辞令」1922年1月21日。
- ^ 『官報』第1233号「叙任及辞令」1931年2月10日。
- ^ 『官報』第7280号「叙任及辞令」1907年10月3日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第743号「叙任及辞令」1915年1月26日。
- ^ 『官報』第1850号「叙任及辞令」1918年10月2日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第293号「叙任及辞令」1927年12月19日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第5398号「宮廷録事」1945年1月16日。
- ^ 『官報』第902号「叙任及辞令」1915年8月4日。
- ^ a b 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会編『平成新修旧華族家系大成 上巻』吉川弘文館、1996年、P596 - P597。
参考文献
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』 秦郁彦・同研究会編、東京大学出版会、1981年
- 『CD-ROM 現代日本人名録 物故者編.1901-2000』 日外アソシエーツ 2001年
関連文献
外部リンク
公職 | ||
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先代 池上四郎 |
朝鮮総督府政務総監 朝鮮総督府土木会議議長 朝鮮総督府中枢院議長 朝鮮史編修会会長 1927年 - 1929年 |
次代 今井田清徳 |
先代 正親町実正 |
賞勲局総裁 1918年 - 1921年 |
次代 正親町実正 |
先代 (新設) |
臨時国勢調査局長官 1918年 |
次代 高橋光威 |
先代 小松緑 総務部長官心得 |
朝鮮総督府総務局長 1912年 - 1916年 |
次代 荻田悦造 |
その他の役職 | ||
先代 澤柳政太郎 |
成城中学校長 1928年 - 1946年 |
次代 新井本治 |
先代 永田秀次郎 |
東京市政調査会会長 1943年 - 1946年 |
次代 前田多門 |
先代 (新設) |
恩給金庫理事長 1938年 - 1940年 |
次代 三井清一郎 |
先代 藤田一松 |
財団法人成城学園理事長 1933年 |
次代 今村明恒 |
先代 三沢糾 |
成城高等女学校長 1933年 |
次代 銅直勇 校長事務取扱 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
伯爵 兒玉家 初代または第2代 1907年 - 1947年 |
次代 (死の翌月に) 華族制度廃止 |
先代 兒玉源太郎 |
子爵 兒玉家第2代 1906年 - 1907年 |
次代 陞爵 |