公皙哀

公皙 哀(こうせき あい、拼音:Gōngxī Aī、生没年不詳)は、中国春秋時代の人である。は公皙、は哀、は季次または季沈。孔子の七十子弟子の一人[1]司馬貞の『史記索隠』によれば、彼の名前は公皙克であったといい、『孔子家語』にもそう記されている[2]

生涯

公皙哀は『論語』では登場しないが、『孔子家語』には彼は斉出身だと記されている[2]

史記』游侠列伝によれば彼は家が貧しかったので、粗末な衣服を着て、一生を草庵で過ごしたという。それでも彼は真剣に学問を学び、徳の高い人格者としての道を歩んだとされる。また、彼は貴族に仕えるのを拒否し、極貧の生活を送ることを選択したという。当時はほとんどの人が身を汚してでも人に仕えていた中、彼は生涯官職に就かず、これについて孔子は 「天下、行い無し、多くは家臣と為り、都に仕う。唯季次のみ未だ嘗て仕えず」(ひどい世の中だというのに、弟子の多くはどこかの家臣になったり、都で仕官している。ただ季次のみが、まだ仕官しようとしない)と言い、公皙哀の道義を重んじる精神を称賛した。

追贈

孔子廟には公皙哀の位牌が外庭に、四聖や十二哲の位牌を越えて公冶長の位牌の後ろに配置された[1]

739年開元27年)、唐代玄宗により郳伯の称号を追贈された。

1009年大中祥符2年)、北宋真宗により北海侯の称号を追贈された。

1530年嘉靖9年)、明代に「先賢公子」に称号を改められた。

清代に「先賢公皙子」に称号を改められた[3]

脚注

参考文献