伏見宮博恭王

伏見宮博恭王
伏見宮
1920年代撮影
続柄

身位
敬称 殿下
出生 1875年10月16日
日本の旗 日本東京府麹町区
死去 (1946-08-16) 1946年8月16日(70歳没)
日本の旗 日本東京都品川区上大崎、伏見宮邸
埋葬 1946年8月21日
豊島岡墓地
配偶者 徳川経子
子女 博義王
恭子女王
華頂宮博忠王
博信王
敦子女王
知子女王
博英王
父親 伏見宮貞愛親王
母親 河野千代子
栄典 大勲位菊花章頸飾
役職 大日本帝国海軍
元帥海軍大将軍令部総長
議定官
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伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう、1875年明治8年〉10月16日 - 1946年昭和21年〉8月16日)は、日本皇族海軍軍人ドイツ帝国海軍兵学校・海軍大学校卒業(日本海兵18期相当)。栄典元帥海軍大将大勲位功一級伏見宮貞愛親王の第一王子(庶長子)。伏見宮第25代当主。議定官軍令部総長を務めた。初め名を愛賢王(なるかたおう)といい、華頂宮相続に当たり名を博恭と改めた。日露戦争では連合艦隊旗艦三笠」分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う[注釈 1]艦長艦隊司令長官を務める等、皇族軍人の中では際立って実戦経験が豊富であった。伏見軍令部総長宮殿下(ふしみぐんれいぶそうちょうのみやでんか)、伏見元帥宮殿下(ふしみげんすいのみやでんか)などとも呼ばれた。

生涯

生い立ち

貞愛親王とその女房の河野千代子との間に第一王子愛賢として生まれた。当時貞愛親王は満17歳であった。庶子であったことから、誕生当初は王の身位も与えられなかった。

公家社会の嫡庶の序を重んじる伝統に加え、一夫一妻制をとる西洋社会の影響から、伏見宮の継嗣の対象からは外された。邦家親王とその正妃親王妃景子との間に生まれた父の貞愛親王や伯父で先代伏見宮の貞教親王も、庶子であった数人の兄たちを飛ばして伏見宮家を継承している。当時の太政官布告によれば将来的に臣籍降下し華族に列せられる予定であった。

華頂宮の継承

明治9年(1876年)に愛賢王の伯父にあたる華頂宮博経親王が26歳で薨去、博経親王の子博厚が皇族に列し、華頂宮家を継承した[注釈 2]

その博厚も明治16年(1883年)に8歳で薨去。明治天皇の特旨をもって華頂宮の存続を決定し、まず博厚王[2] を猶子・親王宣下により博厚親王とした上で、華頂宮自体の継承に関しては、本家に当たる伏見宮から王子を充当し宮家を立てることとし、行先の決まっていなかった愛賢王が華頂宮を継承、同時に名を博恭と改めた。

海軍軍人

華頂宮を継承して3年後の1886年(明治19年)4月5日、博恭王は海軍兵学校予科に入学し(16期)、海軍軍人としてのスタートを切る。3年後に海軍兵学校を中退してドイツに渡り、キール海軍兵学校キール海軍大学校Marineakademie und -schule)で学び、1895年(明治28年)まで滞在した。この間、1893年(明治26年)3月30日に海軍少尉候補生を命じられ、1894年(明治27年)4月20日に海軍少尉に任官した[3]。ドイツ海軍大学校を卒業した後には貴族院議員(皇族議員)に任じられた。

博恭王は、日本の海軍兵学校は「期外」である[4]。しかし、海軍史家の野村実は「日本海軍は明らかに、博恭王を海兵十八期生として待遇していたわけである。」[5]と述べている。博恭王の進級は、海軍中尉進級から海軍大佐進級まで、兵18期クラスヘッドの加藤寛治と同時であった(海軍少将進級は、博恭王が大正2年8月、加藤が大正5年12月)[5][6][7]

日本への帰国後は巡洋艦戦艦での艦隊勤務を重ね、このため後述する様に皇族とはかけ離れた行動様式や生活が身につくことになる。

1897年(明治30年)1月9日、徳川慶喜の九女・経子と結婚した[8]

1903年(明治36年)に海軍少佐に任官される。

翌1904年(明治37年)、邦芳王廃嫡に伴い、華頂宮から急遽伏見宮に復籍して後嗣となり、また第二王子で僅か2歳の博忠王が華頂宮を継承することとなった[9][注釈 3]

伏見宮復籍後も艦隊勤務での実績を積み、日露戦争黄海海戦において、旗艦「三笠」の第三分隊長として後部の30センチ砲塔を指揮、その際負傷した。

1913年(大正2年)8月31日に海軍少将に任官されると共に横須賀鎮守府艦隊司令官に就任。更に海軍大学校長第二艦隊司令長官などを歴任し、1923年(大正12年)に貞愛親王の薨去に伴い、伏見宮を継承した(第25代)。

海軍の頂点に

1931年(昭和6年)末、参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、海軍もバランスをとる必要性から、1932年(昭和7年)2月2日付で、博恭王が海軍軍令最高位である海軍軍令部長に就任した[10]。同年5月27日[注釈 4]付で、元帥府に列せられ元帥の称号を受ける[11]

1933年(昭和8年)10月、軍令海第5号軍令部令により海軍軍令部は冠の「海軍」が外れて「軍令部」となり、海軍軍令部長も「軍令部総長」となる。これは陸軍の「参謀本部」「参謀総長」と対応させたものであり、特に皇族である博恭王は「伏見軍令部総長宮(ふしみぐんれいぶそうちょうのみや)」と呼称される。また、北原白秋作詞、海軍軍楽隊作曲による国民歌「伏見軍令部總長宮を讃え奉る」も作られている(#外部リンクを参照)。

海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化のための軍令部令及び省部互渉規定改正案について「私の在任中でなければできまい。ぜひともやれ」と高橋三吉嶋田繁太郎といった軍令部次長に指示して艦隊派寄りの政策を推進した。本来海軍では人事権がなかったはずの軍令部の博恭王だが、皇族あるいは海軍長老としての権威で大角海相に圧力をかけ、人事への介入を強め、艦隊派を残し条約推進派を海軍から罷免させていった[12]。さらに海軍軍令部の呼称を軍令部に、海軍軍令部長の呼称を軍令部総長に変更、ついには兵力量の決定権(編成権)を海軍省から軍令部に移して軍令部の権限を大幅に強化し、海軍省の機能を制度上・人事上弱体化させることに成功、軍令部は海軍省に対して対等以上の力を得ることとなった。

以上の一連の流れは元々、海軍内に軍令部を中心とした艦隊派海軍省を中心とした条約派の内部対立があり、艦隊派の軍令部が伏見宮博恭王を担ぎだし条約派にロンドン条約の意趣返しをしたという背景がある[13]

二・二六事件では事件発生の朝、加藤寛治真崎甚三郎と協議を行ってから参内している。この時、叛乱軍に同情的であった伏見宮は昭和天皇の怒りを買い、その後は叛乱鎮圧に向けて動いている[14]。ところが、2019年にNHKスペシャルにより発見された海軍軍令部の極秘資料によれば海軍は事件前から2・26事件の予兆を把握しており、事件発生直後、参内した博恭王に昭和天皇は「海軍の青年士官の合流することなきや」と尋ねたところ、博恭王は海軍が反乱に加わることはない旨を明言し、さらに天皇から大海令を賜り事件鎮圧のために海軍トップとして天皇側の重要な戦力として事件の最初期から動いたことが明らかになった[15]。思惑のはずれた加藤寛治は「終日憂鬱」と日記に記している[16]。以後、海軍は鎮圧に向けて決起部隊を包囲する形で艦隊陸戦隊を展開している。

午後二時三十分に行われた皇族会議においても伏見宮博恭王は事前に高松宮久邇宮と打ち合わせをし、宮家、皇族の長老として会議をリードし反乱部隊の速かな鎮圧の方針を決し戒厳司令部に伝えるとともに、秩父宮と高松宮に天皇を補佐することを助言した。これに秩父宮と高松宮は頭を垂れて応えたという[17]

三国同盟には当初から反対しており、同じく反対派だった昭和天皇は三国同盟を阻止するために博恭王に相談をして、米内光政を総理大臣に推薦したという[18]米内光政内閣)。

また対米開戦に対してもこの当時は絶対反対を主張していたという[19]

対米開戦八か月前の昭和16年4月9日に病気のため軍令部総長を辞任した。

軍政から辞した博恭王であったが、依然として海軍内に権力をもっており、太平洋戦争中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律であった。

晩年

1938年(昭和13年)10月、長男・博義王が急死。1939年(昭和14年)8月18日には経子妃と死別。さらに1943年(昭和18年)8月、四男・伏見博英伯爵が戦死。天皇を守る役目を負った宮家として、当然の役割を果たしたと、冷静に受け止めた[20]

1944年(昭和19年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議において、「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。そしてこの対策は、急がなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言した[21]。この「特殊な兵器」は特攻兵器を意味するものであったとの説がある[22]。同年末頃に、脳出血を起こし、心臓の病を抱え、熱海別邸で療養生活を送る[23]

敗戦直後、病躯をおして上京。しばらくは、戦災で焼失した伏見宮邸近くの旅館「福田屋」で生活を送った[23]。さらに、目黒に所在した三条公爵家の邸宅を買い取って移住[23]。敗戦に前後し、重要な書類や日記は全て焼却処分したため、米軍に接収されていない[23]

1946年(昭和21年)8月16日午前9時38分、伏見宮邸にて薨去した[24]。薨去したその日に、昭和天皇が弔問に訪れた[25]

8月21日に、豊島岡墓地で葬儀が執り行われた[26]。伏見宮は嫡孫の博明王が継承した。

評価

当時の皇族軍人は実質的権限を発揮しないのが通例になっていたが、実戦・実務経験豊富な博恭王はお飾りの皇族軍人ではなく、「潮気のある」一流の海軍軍人としての風格を持っていた。自ら率先して最前線に立ち、常に部下将兵を鼓舞し苦楽を共にするのを厭わない姿勢や、操艦の名手として関門海峡のような「船の難所」でも難無く艦を操るその実力は海軍内でも評価されていた[27]。皇族風を吹かせない人柄や、軍人としての実力・けじめを持ち合わせており、海軍軍人内では広く敬愛された人物だったという [28]

また、伏見宮を軍令部総長にした経緯は、陸軍内部の派閥争いが深刻なものになったため元老西園寺公望に相談の上で閑院宮に参謀総長に就いてもらった。その先例に倣って海軍も伏見宮に軍令部総長に就いてもらったと昭和天皇は述べており伏見宮本人に対する不満も述べてはいない(「昭和天皇独白録」)[29]。 一方、海軍トップの軍令部総長として君臨したその責任を問う声があることも事実である(後述)。

海軍の頂点として

東郷平八郎とは『宮様と神様(殿下と神様)』と呼ばれ、海軍内で神格化されていた。博恭王は大艦巨砲主義者であったので、博恭王の威光を利用した艦隊派の台頭を招くことに繋がった。これについて井上成美は、皇族が総長に就くことで、意見の硬直化を招いたことを「明治の頭で昭和の戦争をした」と称して批判している。博恭王の総長退任時に及川古志郎海相に意見を求められた井上は、「もともと皇族の方はこういう重大事に総長になるようには育っておられない」「宮様が総長だと次長が総長のような権力を持つことになる」と手厳しく批判している。これらのことから、海軍内の条約派を追放し、日米開戦の元凶になった一因となったとして、戦後は批判的な評価を受けることが多い[30]。しかし、そもそも博恭王を軍令部長に担いだのは「艦隊派」であり、その運動の中心となったのは艦隊派のシンボル東郷平八郎とその腹心、小笠原長生であった[31][32]。 半藤一利は、親独派で日米開戦論者であった伏見宮が海軍で日米開戦についてもっとも責任が重い皇族軍人としている[33]。艦隊派の拠点である軍令部は博恭王を担ぐことにより条約派の海軍省に意趣返しをしたのであった[34]。しかし、昭和13年から翌年にかけて陸軍と海軍が日独伊三国同盟について対立すると、米内光政海軍大臣、山本五十六次官らは英米を無用に刺激すると猛反対したが、博恭王は米内らを一貫して支持する姿勢を堅持していた[18][35]。また敗戦後のものであるが、海軍関係者らからは、対米開戦についても博恭王は当初は絶対反対と主張していたという[36][35]開戦を主張するようになったのは9月6日の御前会議で10月下旬をめどとして対米英蘭戦争の準備を完了するとした「帝国国策遂行要領」決定以降のことである。[要出典]伏見宮は10月9日に参内して天皇に「米国と戦争しなければ陸軍に反乱が起きる」「人民は開戦を希望している」と語ったが天皇に「今はその時期ではない」と反論され博恭王は主張を取り消したということを木戸幸一は天皇から聞いたという[37]。この発言は9月6日の御前会議で対英米蘭戦争の準備を10月下旬には完了するとした「帝国国策遂行要領」の決定や10月5日に連合艦隊に作戦準備が命じられた以降のものであり、博恭王の発言は軍事的には暴論とは言えないと言われる[38]

開戦時の嶋田繁太郎海相が避戦派から開戦派に転向したのも伏見宮の働きかけによるとされる[39]。伏見宮は昭和16年(1941年)まで軍令部総長を務めていたが、総長にあと1年長く在任していれば、開戦責任を問われて戦犯とされていた可能性も高く、もしそうなっていれば開戦責任が皇族関係者に及ぶことになる可能性もあり得た[40]海軍反省会でも博恭王の戦争責任について問題提起されたが、皇族という存在の重さゆえか、議論は深まらなかった[41]。この点に関してはこの時期、東久邇宮が総理候補になっていたのを昭和天皇が皇室に開戦の責任を及ぼしかねないことを見越して却下したのと同じ背景で、「病気になられた機会に替わっていただいた」(「昭和天皇独白録」)[29]という事情と、海軍内部も同じく開戦責任を伏見宮に及ぼさないため辞めていただいたという事情だったという(「博恭殿下を偲び奉りて」南郷次郎海軍少将)[42]

反面、博恭王自身は日米戦について「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」という『早期決戦・早期和平』の考えを持っていたとされ、実際にその様な内容を昭和天皇にも上奏を行っている[注釈 5]。艦隊派の重鎮であった博恭王とは反対の立場であった『欧米協調派』の山本五十六とは、日米戦について近い考えをしていたと考えられる[43]

一軍人としての人柄

軍令部の権限強化を図るべく博恭王が主導した「軍令部令及び省部互渉規定改正案」に対し、井上成美は自らの軍務局第1課長の職を賭して激しく抵抗し、結果として更迭された。井上は横須賀鎮守府付となり、待命・予備役編入の危機にさらされた。しかし大佐昇進後5年目にして戦艦比叡艦長に補され、艦長の任期は通常1年のところを2年務めて少将に進級している[注釈 6]。井上が予備役編入されずに比叡艦長に栄転したのは、博恭王が敵であったはずの井上について「井上をよいポストにやってくれ」[44]と海軍人事当局に口添えしたためだという(井上本人が、当時の海軍省人事局第1課長であった清水光美から聴取した。なお異説もある[45]。)[44]

海軍での生活や習慣が身に付いていた博恭王には、皇族らしからぬ逸話が残っている。入浴後、皇族であれば湯かたびらを何枚も着替えて体の水分を取るのが普通であるが、博恭王は一般の庶民と同じように、使っていた手ぬぐいを固く絞り、パンパンと払い伸ばしてから体を拭いていたという。下着の洗濯などは自ら行うこともあり、周りの者から「いつその様なことを憶えられたのですか?」と聞かれると「海軍では当たり前である」と答えたといわれる。

嶋田繁太郎の日記によると、艦内では握り飯漬物という簡易な食事を好み、吉田俊雄「四人の軍令部総長」(文春文庫)によると、海軍省食堂での昼食時における博恭王の好物は天ぷらうどんだったという。また、軍令部総長の在任が長い事に掛けて、海軍部内では特徴的な長い顔から「長面君(ちょうめんくん)」と渾名を付けられていた。

ある時、部下が「殿下、殿下」と部屋のドアをノックすると、「すぐに出るから「出んか、出んか」と騒ぐな」というエピソードも残され、ユーモアあふれる人柄で、その容貌から「長面君」とあだ名され海軍軍人から広く敬愛された人物だったという[46]

博恭王の岳父徳川慶喜であったが、あるとき艦内で士官たちが幕末の議論をしていて誰かが徳川慶喜を激しく批判したことがあった。その際に博恭王は黙って席を立ったが、後にその士官が謝罪に来たときに、「いや気にすることはない、勉強になった」と声をかけたという。

また臣籍降下した四男伏見博英1943年に戦死した際、戦死者合同葬で博英の霊位を最上位に置こうとした海軍当局の動きを止め、あくまで海軍の階級順とさせた。

長老皇族として

伏見宮家家長として、傍系の宮家にも気をかけた。久邇宮邦彦王が、その第一王子である久邇宮朝融王酒井菊子との婚約を私事により一方的に解消させた事件があった。これ以前に、邦彦王の第一王女である良子女王(香淳皇后)と皇太子裕仁親王(昭和天皇)との婚姻に関し、周囲の反対を押し切ってそれを成立させただけに(宮中某重大事件)、逆の立場に陥った久邇宮家への風当たりは強かった。

その中で博恭王は自身の娘知子女王を、朝融王の性質を言い含めた上で久邇宮家へ嫁がせ、皇室内の空気の引き締めに一役買ったと言える。しかしその直後、朝融王は妃を裏切る形で侍女を懐妊させ、博恭王は久邇宮父子の度重なる不貞に強く心を痛めたという[47]


経歴

栄典

家族

※敦子女王と知子女王は双生児である。

系図

伏見宮家系図

崇光天皇
 
(1)栄仁親王
 
(2)治仁王
 
 
後花園天皇
 
後土御門天皇
 
後柏原天皇
 
後奈良天皇
 
正親町天皇
 
A
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(3)貞成親王
(後崇光院)
 
 
(4)貞常親王
 
(5)邦高親王
 
(6)貞敦親王
 
(7)邦輔親王
 
(8)貞康親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(9)邦房親王
 
B
 
 

A
 
誠仁親王
 
後陽成天皇
 
後水尾天皇
 
霊元天皇
 
東山天皇
 
中御門天皇
 
C
 
 
 
 
 
 
 
 
 
B
 
(10)貞清親王
 
(11)邦尚親王
 
 
福子内親王
 
 
(閑院宮1)直仁親王
 
D
 
 
 
 
 
 
 
 
(12)邦道親王
 
 
 
 
 
(15)貞建親王
 
E
 
 
 
 
 
 
 
 
(13)貞致親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(14)邦永親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

C
 
桜町天皇
 
桃園天皇
 
後桃園天皇
 
 
 
 
 
 
(17)貞行親王
 
D
 
(閑院宮2)典仁親王
 
(閑院宮3)美仁親王
 
(閑院宮4)孝仁親王
 
(閑院宮5)愛仁親王
 
 
 
 
 
 
 
光格天皇
 
仁孝天皇
 
孝明天皇
 
明治天皇
 
大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(16)邦忠親王
 
 
E
 
 
(18)邦頼親王
 
(19)貞敬親王
 
F
 
 
 

F
 
(20/23)邦家親王
 
(山階宮1)晃親王
 
(梨本宮2/山階宮2)
菊麿王
 
(山階宮3)武彦王
(皇籍離脱)
 
 
 
 
 
 
 
 
(梨本宮1)守脩親王
 
 
(久邇宮1)朝彦親王
 
(賀陽宮1)邦憲王
 
(賀陽宮2)恒憲王
(皇籍離脱)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(久邇宮2)邦彦王
 
(久邇宮3)朝融王
(皇籍離脱)
 
 
 
 
 
 
 
(梨本宮3)守正王
(皇籍離脱)
 
 
香淳皇后
 
 
 
 
 
 
多嘉王
 
 
第125代天皇
明仁上皇
 
第126代天皇
徳仁今上天皇
 
 
 
 
 
(21)貞教親王
 
 
(朝香宮)鳩彦王
(皇籍離脱)
昭和天皇
 
 
 
 
 
 
(東久邇宮)稔彦王
(皇籍離脱)
 
 
 
小松宮彰仁親王
 
 
(竹田宮1)恒久王
 
(竹田宮2)恒徳王
(皇籍離脱)
 
 
 
 
 
 
(北白川宮2)能久親王
 
 
(北白川宮3)成久王
 
(北白川宮4)永久王
 
(北白川宮5)道久王
(皇籍離脱)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
小松輝久
 
 
 
(華頂宮1)博経親王
 
(華頂宮2)博厚親王
 
 
 
 
(北白川宮1)智成親王
 
 
(25/華頂宮3)
博恭王
 
博義王
 
(26)博明王
(皇籍離脱)
 
 
 
 
 
 
 
 
(22/24)貞愛親王
 
 
邦芳王
 
 
(華頂宮4)
博忠王
 
 
 
 
 
(閑院宮6)載仁親王
 
(閑院宮7)春仁王
(皇籍離脱)
 
 
華頂博信
 
 
 
 
 
(東伏見宮)依仁親王
 
 
伏見博英
 
 

参考文献

  • 井上成美伝記刊行会『井上成美』井上成美伝記刊行会、1982年。 
  • 野村實『山本五十六再考』中央公論社〈中公文庫〉、1996年。ISBN 4-12-202579-6 
  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。 
  • 伏見博明『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』中央公論新社、2022年1月26日。ISBN 978-4120054952 
  • 寺崎英成『昭和天皇独白録』文藝春秋〈文春文庫〉、1995年7月10日。 
  • 浅見雅男『伏見宮』講談社、2012年12月25日。 

脚注

注釈

  1. ^ 長く敵弾による負傷とされてきたが、実際は「三笠」後部主砲塔右砲の砲身内膅発が原因であった[1]
  2. ^ 当時の布告により旧来からの4つの世襲親王家を除く宮家においては一代限りの存続とし、その後の子供たちは臣籍降下して華族に列するとしていた(博厚は明治9年の布告までは皇族ですら無かった)が、これを不憫に思った有栖川宮熾仁親王ら周囲の人間の嘆願から、天皇特旨により華頂宮の継承が認められた格好となった。これを切っ掛けとして一代宮家とされた新設宮家たちの世襲も徐々に認められるようになる。
  3. ^ 伏見宮の家督を継承するはずであった邦芳王が「不治の病」となり、またその同母弟である昭徳王は、既に夭折していた。なお、博恭王の子である博義王と恭子女王も同時に復籍している[9]
  4. ^ 同日は海軍記念日である。
  5. ^ 嶋田繁太郎の日記による[43]
  6. ^ 海軍における慣例として、大佐進級から少将進級には6年を要したが、6年目の大佐として主力艦(戦艦・正規航空母艦)の艦長を務めれば、1年後に少将へ進級することが確実であった。

出典

  1. ^ 野村實『山本五十六再考』中公文庫P159 - 174。初版は1988年文藝春秋刊『天皇・伏見宮と日本海軍』
  2. ^ 『法令全書』明治十六年二月十五日 宮内省告示第一號
  3. ^ a b c 現役海軍士官名簿(昭和9年2月1日調)』(国立国会図書館デジタルコレクション)海軍省、1頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/19054682022年2月26日閲覧 
  4. ^ 秦 2005, pp. 269–288, 第1部 主要陸海軍人の履歴-期別索引
  5. ^ a b 野村 1996, p. 32
  6. ^ 秦 2005, p. 247, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-伏見宮博恭王
  7. ^ 秦 2005, p. 196, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-加藤寛治
  8. ^ 明治30年宮内省告示第1号(『官報』号外、明治30年1月9日)(NDLJP:2947339/10
  9. ^ a b 明治37年宮内省告示第5号(『官報』第6160号、明治37年1月16日)(NDLJP:2949471/3
  10. ^ 『官報』第1526号「叙任及辞令」、昭和7年2月3日(NDLJP:2957996/3
  11. ^ 『官報』第1621号「叙任及辞令」、昭和7年5月28日(NDLJP:2958092/5
  12. ^ 「大角人事」再考”. 立教大学. 2023年11月18日閲覧。
  13. ^ 浅見雅男 2012, p. 302‐306.
  14. ^ 杉山 和男. “再び2・26事件について”. 一般財団法人 国際貿易投資研究所(ITI). 2023年11月26日閲覧。
  15. ^ 2019年8月15日(木) 午後7時30分~8時43分放送「NHKスペシャル「全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る~」https://www.nhk.or.jp/special/detail/20190815.html
  16. ^ (「加藤寛治日記」続・現代史資料5)
  17. ^ (児島襄『天皇』第三巻 文藝春秋、昭和49年11月30日 113‐115頁)
  18. ^ a b 寺崎英成 1995, p. 57‐58.
  19. ^ (「海軍戦争検討会議記録」)
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関連項目

外部リンク

日本の皇室
先代
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1932年2月2日 - 1941年4月9日
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