名取春仙

名取春仙
ヒト
性別男性 編集
国籍日本 編集
母語表記名取春仙 編集
出生名名取芳之助 編集
読み仮名なとり しゅんせん 編集
生年月日7 2 1886 編集
出生地中巨摩郡 編集
死亡年月日30 3 1960 編集
死没地東京 編集
死亡状況自殺 編集
死因中毒 編集
職業イラストレーター版画家浮世絵師画家 編集
勤務先東京朝日新聞萬朝報 編集
師匠久保田米僊久保田金僊 編集
ムーブメント日本画 編集
所属グループ日本美術院 編集
コレクション所蔵者ヴィクトリア国立美術館ミネアポリス美術館シカゴ美術館オーストラリア国立美術館 編集
作者の著作権状態著作権保護期間満了 編集
二世中村鴈治郎紙屋治兵衛

名取 春仙(なとり しゅんせん、1886年明治19年)2月7日 - 1960年昭和35年)3月30日 [1])は、明治から昭和時代の版画家、挿絵画家、浮世絵師日本画家

来歴

久保田米僊及び久保田金僊の門人。本名は芳之助。春僊、春川、黛子洞、梶蔦亭、青紫亭とも号す。山梨県中巨摩郡明穂村(現・南アルプス市小笠原)で、名取市四郎・みちの五男として生まれる。父・市太郎は両国屋という綿問屋で、雑貨なども商い、峡西地方の金融業・十圓社を興し、第十国立銀行創立の際にも若尾逸平らと共に資金を拠出、山梨県初代県議会議員の一人でもあった。ところが父の事業の失敗により、1歳の時東京に移る。1892年(明治25年)東京市立城東尋常高等小学校に入学。同窓の川端龍子岡本一平仲田勝之助とともに画才を認められていた。11歳の時、綾岡(池田)有真に日本画の基礎と着彩を習う。1900年(明治33年)14歳で米僊に、米僊失明後は金僊に学ぶ。1904年(明治37年)東京美術学校日本画撰科に入学、1905年(明治38年)福井江亭にも洋画も学び、平福百穂に私淑して中退する。

1902年(明治35年)、16歳の時、「秋色」、「霜夜」を第13回日本絵画協会展・第8回日本美術院連合共進会展に出品、「摘草」を第5回无声会展に出品した。同年、真美会に出品した水墨画「牧牛の図」が褒章を受けたのを始めとし、数多くの賞を受けた。1906年(明治39年)、20歳の時には日本美術院展に「海の竜神」を出品、入選している。同年、平福百穂、水野輝方らと実用図案社で働く。翌年、東京朝日新聞連載の二葉亭四迷の小説『平凡』の挿絵を描いたことが縁となり、1909年(明治42年)、同社に入社、1913年大正2年)に退社するまでに夏目漱石の小説『虞美人草』や『三四郎』、『明暗』、『それから』などの挿絵を描いたことで、ジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を手掛けた。他には森田草平の『煤煙』や長塚節の『土』、島崎藤村の『』、田山花袋の『小さな鳩』、泉鏡花の『白鷺』、石川啄木一握の砂』(東雲堂書店、1910年)などの挿絵をしている。

1915年(大正4年)には小雑誌『新似顔』に役者絵を掲載した。翌1916年(大正5年)に京橋の画博堂で開催された第2回「劇画展覧会」に出品していた肉筆画「鴈治郎の椀久」が渡辺庄三郎の眼にとまり、渡辺版画店から役者絵「初代中村鴈治郎の紙屋治兵衛」を版行、これが春仙の最初の新版画作品であった。春仙の役者絵は、写実に基づきながらも、役者の美しさ、芝居の面白さを無視したものではなく、それが多少甘いと評される訳であるが、本作品の持つすっきりとした爽快感が評価され、代表作となった。その後、1917年(大正6年)には「梅幸のお富」を版行している。春仙の作品は後に「創作版画 春仙似顔絵集」にまとめられ、1925年(大正14年)から1929年(昭和4年)まで刊行された。この似顔絵集を見たドイツ大使ヴィルヘルム・ゾルフ徳川頼貞、高見廉吉らは春仙に木版による肖像画を依頼、これらを制作した。春仙はおよそ100種以上の版画を作成、山村耕花とともに新版画の中で、役者大首絵を描いた代表的存在であった。他に肉筆画なども手掛けている。

1930年(昭和5年)にはアメリカの雑誌『アメリカンマガゲンオブアート』に伊東深水川瀬巴水らとともに春仙の版画における功績を紹介されている。1950年代後半には富士山を「是即ち地球で第一の山」とたたえて、富士山を題材とした風景画を手掛けている。

1958年(昭和33年)2月、長女を肺炎で亡くし、1960年(昭和35年)3月30日午前7時、妻の繁子とともに青山の高徳寺境内名取家墓前で服毒自殺した。74歳没。法名は浄閑院芳雲春仙信士。遺書には、寺院へ迷惑をかけることの詫びと、将来、夫婦のどちらか一人だけが残されることは望まぬため、娘の傍で二人で逝くことにした旨が記されていた[2]

没後、1987年(昭和62年)に春仙の画業を顕彰するため民間有志が惜春会を結成。その4年後の1991年(平成3年)地元に「櫛形町立春仙美術館」が開館し [3]、町の合併に伴い「南アルプス市立春仙美術館」と改称、更に白根桃源美術館を吸収して「南アルプス市立美術館」となって現在に至る。

作品

木版画

肉筆画

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考
南洋探検 著色 二曲一隻 148.0x145.0 個人 1911年(明治44年)
大河内傳次郎 丹下左膳 二曲一隻 136x116 大河内山荘 1933年(昭和8年) 松坂屋で開催された日活左膳展出品
久成寺四六堂 大絵馬 板地著色 絵馬4面 60.0x240.0 久成寺(南アルプス市) 1935年(昭和10年) 左から順に小笠原長清、八重垣姫、日蓮、遊女江口を描く。
再挙 紙本著色 130.0x178.0 春仙美術館 1936年(昭和11年) 改組第一回帝国美術院展出品
春興鏡獅子図 六曲一隻 172.0x376.0 山梨県立美術館 1941年(昭和16年)
義経歌舞伎屏風 六曲一隻 168.0x366.0 山梨県立美術館 1950年(昭和25年)頃
Actor Nakamura Ganjirō II as Manno 絹本著色 1幅 122.2x20 ミネアポリス美術館 1954年(昭和29年)頃
取り入れ 160x130 白雲楼ホテル旧蔵 制作年不詳
石橋 金地著色 六曲一隻 136.0x306.0 春仙美術館 制作年不詳
鏡獅子図 金地著色 四曲一隻 87.5x241.5 個人 制作年不詳

脚注

参考図書

展覧会図録
  • 『浮世絵歌舞伎画ー最後の巨匠 名取春仙展』 櫛形町立春仙美術館、1991年
  • 山田耕三監修 『名取春仙 櫛形町立春仙美術館所蔵名取春仙作品目録』 櫛形町立春仙美術館発行、2002年
  • 東京都江戸東京博物館編 『よみがえる浮世絵 うるわしき大正新版画展』 東京都江戸東京博物館 朝日新聞社、2009年
  • 向山富士雄監修 矢野晴代編集 『開館25周年記念「生誕130年 名取春仙」展』 南アルプス市立美術館、2016年10月
概説書・事典類

関連項目

外部リンク