年季奉公
年季奉公(ねんき ぼうこう、英: indentured servitude)は、主人と従属する奉公人の間で、時限的に主として労働を提供する身分形態。多くは住み込みで食糧や日用品は支給されたが、給与は支払われないか、支払われたとしても極く僅かなものだった。かつては世界の多くの国で合法とされた制度だったが、近現代になると人権侵害が理由で禁止され、今日では日本を除き、少なくとも合法には存在しない。
解説
年季奉公の大きな問題は、劣悪な労働環境を強制され移動や職業の自由が無く、身分的に法的保護の対象から外された存在である以外にも、奉公人を売った者(本人や親族等)が主人に借金してる状態であり様々な理由を付けて返済額が減らされる等して年限が延びてしまう点で、死亡するまで奉公が続く事も少なく無かった。
日本においては、下人が年季奉公の形を取り始めるのが江戸期となる[1]。江戸時代に農村の飢鐘により人身売買が横行したため、幕府は寛永2年(1625年)には最大の奉公年数を最長10年間と規制した[2]。しかし元禄11年(1698年)には年季制限を撤廃して永年季奉公(終身)や譜代奉公(永代)を容認した[2]。奉公人はしばしば家業の場や家内で主人からの暴力に曝されることがあった。
日本以外においては、アメリカ南部の農園で栽培されるタバコのような労働集役型換金作物は、17世紀から18世紀に掛けて年季奉公人の労働で賄われた[3] 。1865年に奴隷制度が廃止されてからも、労働力の確保のために年季奉公契約をその抜け道とすることが行われた。
日本
形態や名称の変遷
豊臣政権は兵農分離態勢を確立するために太閤検地、人身売買禁止令、人返し令、武家奉公人の身分統制等の政策を推進したが、これらの政策によって生産構造が奴隷制から農奴制に移行したとみなされ、中世から近世への時代区分になったとされている[4][5]。「人身売買禁止令は、中世の奴隷制から近世の農奴制へと日本社会を発展させた革命的な政策の一つと見なされることになった」[6]。
戦国時代に来航したポルトガル人(宣教師、商人、従者)は主従関係により居住、移動、労働、休息等の自由を制限された労働者を奴隷と考えており、年季奉公人や下人、所従を奴隷と訳している[7][8]。譜代の者とか譜代相伝と呼ばれていた下人や所従は、農業や家内労働に使役され、日本国内において人身売買の対象となっていた[7]。多くの日本人の労働形態はポルトガル人の基準では奴隷であり、誤訳以上の複雑な研究課題とされてきた[8]。ポルトガルでは自由を制限された主従関係は奴隷であり、使役される傭兵(上記の武家奉公人)や銭雇いの雑兵(身分の確立した足軽層ではなく私的関係に於いても主人の保有)も奴隷の名称で分類されていた[9]。またポルトガル人は日本社会の後の農村奉公人たる地主使用人(小作人)は勿論、一般農民のことも奴隷と同定することがあった。1557年、ガスパル・ヴィレラは日本には貴族と僧侶、農民の社会階層があると論じ、貴族と僧侶は経済的に自立しているというが、農民は前二者のために働き、自分たちにはごくわずかの収入しか残らない奴隷状態にあると述べている[10]。コスメ・デ・トーレスは日本人の地主は使用人(小作人)に対して生殺与奪の権力を行使することができるとして、ローマ法において主人が奴隷に対して持つ権利 vitae necisque potestas を例証として使い、日本における奉公人、小作人等の使用人を奴隷身分とした[11]。また中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に、自分や他人を人質として差し出し、税金を全額完納出来ない場合これらの人質は奴隷として売却されたため、農民と奴隷の境界は曖昧で容易に奴隷身分へ転落し得る社会状況だった[12]。
中世日本では身売りや奴隷の人身売買が広く行われており、[注釈 1]ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、永年季奉公人だけでなく数年で解放される契約の年季奉公人も記録されている[14]。日本人の奴隷にはマカオへの渡航を目的とした者、ポルトガル人と身分契約を結んだ者、諸外国へ売却される者、等がいたが[15]、マカオに上陸するなり明の管轄する領土へ逃亡する、日本人の奴隷が続出した[16]結果、多くのポルトガル人は以前程多くの日本人奴隷を買わなくなったという[15]。身売りが広範に起きてた背景には、軍事活動である破壊、放火、略奪による生産手段の破壊によって領民の逃亡や困窮を招き、多くの日本人が餓死から逃れる為に已むを得ず奴隷に身を落とした社会情勢が在る[17]。
江戸時代
日本においては、中世に始まる奴婢、下人、小作人、所従は江戸期になり、農村奉公人、武家奉公人、町家奉公人へと変わり、町家奉公人は奴婢、下人から続く流れである。江戸時代の町家奉公人の代表的形式には、終身の身売りである譜代奉公、身代金を支払って請戻せば奉公を解消出来る本金返年季奉公、借金の担保に人質として奉公人を雇主に売り期限までに返済出来ず質流になれば譜代奉公に転じる質物奉公、年季分の給金を前渡して主人の戸籍に入れる年季奉公があり、武家奉公人と農村奉公人は3月5日と9月10日に主従関係を結び出替奉公と呼ばれた。肉体労働、雑事や家内雑用に従事する日用取人(ひようとりにん)、下人は通常年季(1年、半年)や月毎の奉公だが、商家の家業に従事する丁稚、手代、番頭等の奉公は通常10年から20年に及び、職人の弟子奉公(徒弟制度)も10年に及ぶのが普通だった[18]。これ等の丁稚や弟子は無給か僅かな小遣いが与えられる程度で、給金は丁稚奉公や弟子奉公を終え、改めて手代や職人として雇用された者のみがそれ以降支給された。
江戸時代に入り形式的には年数の限られた人身売買である年季奉公が増えると譜代下人(または譜代奉公人)としての男性の売買は江戸時代中期(十七世紀末)には減少したが、実態や実質的には永年季奉公と成る事も多く、また売春を生業とした遊女や飯盛女の勤奉公ではいくつかの点で人身売買要素がより濃厚に残存した[19]。
- 家長権を人主から雇い主へ委譲
- 転売の自由
- 身請け・縁付けの権利を雇い主に委譲
- 死亡後の処置も雇い主へ一任
中田薫は「奴婢所有権の作用にも比すべき、他人の人格に干渉し、其人格的法益を処分する人法的支配を、雇主の手に委譲して居る点に於て、此奉公契約が其本源たる人身売買の特質を充分に保存する」と指摘している[20]として「身売的年季奉公契約」と名付けた[19]。下重清は年季奉公制度は遊女の人身売買性の払拭にはたした役割は大きく、女衒組織へ娘を身売りする契約が年季奉公に変わっていくと、「身売り」から「奉公へ出す」という認識へ移行したと下重清は主張している[21]。年季奉公による契約を結ぶことによって人身売買としての「身売り」の実態が隠蔽され「奉公へ出す」という認識が一般的になった[19]。
江戸時代前期の主流は、先祖から奴婢・下人の系譜を引く者や刑罰、年貢未進、誘拐、永代人身売買、借銭人質の質流れ等に因る譜代奉公であり、奉公人は人身売買の対象であった。江戸幕府は法律上は営利的な人の売買を禁止したが、実効性は無く父兄が子弟を売ることは一般的に広く行われた、また人の年季買いは非合法でなかった[18]。徳川幕府の法は家父長権に基づく主人を保護する物で、主人と奉公人との間には法が適用されず私的制裁権を認められ、主従関係に基づく忠誠の関係があるべきものとされた。奉公人は主人を訴える権利が無く、封建的主従関係であった[22]。
江戸時代は幕府の政策により新田開発は事前の申請と許可が必要とされるようになり、それ以前の様な領主の介在無しに開発した隠田を相続して分家する事は不可能となったため農家では相続が重要な問題であり、家業を相続する長男(あるいは長女)を除いた次男以下と女子(長女が相続人である場合は長男を含む男子と次女以下)は、家業に関わって生活する途は農奴しか無いため早くから奉公人として金銭と引換に身売りされるのも通常のことであった。奉公人の逃亡や犯罪は保証人が補償義務を負い、亦た奉公人は奉公先の戸籍へ入籍する必要があるため、奉公先は親類縁者の伝手やムラの関係者等ある程度固定されていた。
借銭の返済期限まで「人質」として働かせるが、その間の労働は無償で、それが利息に見合う形、そして期限がきても借銭未済の場合は「質流れ」になってまったくの下人身分になる(「身売り奉公」「人質奉公」ともよばれた)質物奉公[23]、借銭の担保として身売りし無償労働で返済する居消質奉公、年季奉公等、名称や多少の差異はあるものの基本は変化していない。1年あるいは半年のものは出替奉公[24]、1年のものは一季奉公[25]ともいった。限られた年季が終了したとき「年季が明ける」と表現された[26]。年季奉公をするものを年季者と呼んだ[27]。
幕府は元禄11年(1698年)には年季制限を撤廃して永年季奉公や譜代奉公(代々に渡り永代)を容認した[2]。
美濃国安八郡西条村の例では、1773年から1825年の間に奉公を経験した者は男子50.3%、女子62%に達した。(11歳に達した者に対する率)[28]
農家の相続の為、長子が病気で亡くなるなどの事情があれば親元が補償金を支払って請戻しされ実家へ戻る事が通常だったが、実家に資産が無く家が断絶する事例もあった。
日本の年季奉公は逃亡や犯罪を防ぐ為に地方三帳や宗門人別改帳などに管理された庶民一般の、比較的固定化された供給元と奉公先の間で成立する人身売買、身分契約として行われ、雇人の在所・人名、どの村どの領藩に属するものか明らかな上で雇傭された。これら履歴を失った(欠落)者は無宿扱いとなり非人として様々な不利益を受けた。非人は保証人が存在せず通常は奉公人として主従関係を結べなかった。
明治大正昭和
1872年、芸娼妓の年季奉公が人身売買であるとの認識から「芸娼妓解放令」を出した。「遊女・芸者、その他種々の名目にて年期を限るのはアメリカ合衆国の「売奴」と変わらないとし、遊女・芸妓等の人身売買を禁止するよう提議した[29][30]。また外国人が関与する人権問題とりわけ日本人を雇人として海外に移住させる名目で奴隷貿易をおこなっているとの通報(1867年のハワイ日本人出稼人召還事件)や、中国人の奴隷(苦人)貿易に関わる国際問題の発生(マリア・ルス号事件)などを受け、1872年には人道的な見地から芸娼妓解放令が出され、とりわけ外国人の関わる日本人の奴隷化に神経を尖らせた明治政府は西欧型の労働雇用形態を積極的に導入し、丁稚の近代的商業使用人化への転換を進めた。第一次大戦後の1919年に設立されたILO(国際労働機関)には設立当初から参加している。
明治初期の『芸娼妓解放令』が有名無実なものとなると人身売買に対する法的規制が後退し、他人を売るより子孫を売る方が罪が軽い「和売」が増えた[31]。明治から昭和にかけての人身売買について牧英正は、農村の慢性的貧困は変わらず、父権の強さがあり、人身売買を発生させる温床としての構造上の理由を説明している[32]。
売買春に関わる人身売買と強制労働は、日本に於いて21世紀の現代でも広範に残存するが、江戸期にはすでに身売り、勤奉公として存在し、帝国期には芸娼妓は通常年季奉公の形を採った。1955年最高裁判所における前借金契約を公序良俗違反として無効とする判例変更と1956年の売春防止法によって、法的に人身売買が禁止された[要出典]が、ILOは日本政府の売春や児童ポルノなどへの対策が不十分であるとたびたび勧告を発している[33]。
沖縄
沖縄では糸満売りと呼ばれる年季奉公制度があったが、1955年に琉球政府労働局によって禁止された。
- 日本関連項目
アメリカ
アメリカに植民地が造られはじめた17世紀、労働力不足を補うためにヨーロッパから多くの年季奉公人が大西洋を渡って送られた。イギリスなどの植民地経営会社が渡航者を募り、それに応募してくる者は多くが貧困層あるいは元受刑者など曰くのある者が多く、渡航費すら持っていなかったので、船賃や途中の食費、さらに新大陸での当面の生活費や土地の開拓に要する費用と引き換えに年季奉公の契約をする場合が多かった。この場合、契約年限は7年とされることが普通だった。
大西洋を渡る船旅は厳しいものであった。食糧は2週間分程度を渡され、それ以上支給される可能性は無く、早く消費してしまった場合に何の保障も無かった。飢え以外にも病気や行く先を儚んだ自殺の可能性もあり、新世界まで行き着かない者もいた。北アメリカの植民地の場合、現地での雇用主が奉公人の大西洋渡航船賃を払うことになっており、奉公契約書を持参した船主にその金を渡して奉公人を受け取った。渡航の過程で家族が離れ離れになることもあり、新しい雇用主の下で働いている間に仲間の奉公人が家族の役割を果たすこともあった。奉公の契約にはある種の職業的訓練を施すことが含まれる場合があり、例えば鍛冶屋の年季奉公の場合、契約年限が過ぎれば自分で鍛冶屋を開いて生活していくことも期待できた。17世紀のバージニア植民地で働く白人労働者は大半がこの制度でイギリスから渡ってきた者達であった。雇用主は奉公人に食糧、衣類および住居を与えた。概念上、制度としての年季奉公は当時の徒弟制度より厳しいものではなかった。徒弟は同じように契約で年限を切られ、奉公期間は厳しい無給の労働を強いられていた。契約期間が過ぎた年季奉公人は、新しい衣服、道具あるいは金を与えられて自由にされることになっていた。
しかし、一方で、この考え方は常に現実とはならなかった。男女を問わず年季奉公人は暴力に曝され、場合によっては死に至ることもあった。女性の奉公人は特にその雇用主によって強姦されたり性的虐待を受けることがあった。子供が生まれると奉公年限が2年間延長された。年季奉公人は判事などと相談できる可能性が少なかったし、そのような野蛮行為を避けるための社会的圧力にしても土地や文化的な違いで様々だったので、そのような犯罪を告発して成功する例は稀であった。年季奉公の女性は社会階級的にも性的にも不道徳であると信じられており、法的な救済の可能性も少なかった。
年季奉公は特にイギリスの植民地で入植者の数を増やす方法であった。自発的な移民や懲役刑の労働者は多くいたものの、大西洋を渡る船旅が危険なものであっただけに、入植を奨励する他の方法が必要だった。契約労働者はその重要な集団となり、それほど多かったので、アメリカ合衆国憲法でも次のように言及して、アメリカ合衆国下院の代議員数を決めるときに注意が払われた。
代議員の数と直接税は、合衆国に加盟する諸州のそれぞれの人口に応じて割り振られる。その数は自由人の人口にある年限で奉公する者の数を加える。...
年季奉公人の大半はイギリスの都市部で増加しつつあった失業した貧しい人々から募集された。故郷からは追放され都会では仕事を見つけられずに、これらの人々が年季奉公の契約書にサインしてアメリカに渡った。マサチューセッツでは、ピューリタンの生活様式の中で宗教的な教えが契約条件の一部となっており、人々は町の中で住む傾向があった。アメリカ合衆国北部では、有る程度地域社会と一体化する可能性が高く、家事の雑用や町で必要とされる熟練技能に関わることが多かった。多くの年季奉公人には厳しい仕事や肉体的な虐待の可能性が組み合わさって、精神的に大きなストレスを感じたり抑圧されることが負担となり、特に女性の場合は、男性の場合よりも社会的に厳しい慣習に縛られることが多かった。歴史家達は、このような状態が若い女性が魔女のせいとした「悪魔つき」の兆候を生んだのではないかと仮説を立てている。
対照的にバージニアでは、人口の大半が個々の町には住んでおらず、年季奉公人は孤立した農園で働く傾向にあった。バージニアの住人の大半は英国国教会員であり、ピューリタンではなかったので、宗教が毎日の生活で大きな役割を占め、文化は商業的なもの基づいていた。アッパー・サウス(南部の高度が高い地方)ではタバコが換金作物であり、年季奉公人が行う労働の大半は野良仕事であった。この状況での社会的孤立は直接間接の虐待を増加させ、タバコ畑での長時間労働を強いられることになった。
年季奉公人は年季が明けて自由になった後で直面した貧しい労働条件や生活苦に反応してバージニアでは反乱を起こした。それには土地の無さ、貧乏、税金、民兵の義務および地元の計画のための強制労働が追い討ちを掛けていた。ベイコンの反乱はバージニアで失望した白人や奴隷の中に支持者を見出すことになった。
年季奉公は奴隷制とは異なっていた。植民地時代、「自由」と「非自由」との言葉の意味には連続性があった。この意味で白人労働者を黒人奴隷とは分けて特権があるように考える人種差別的思考の発展は奴隷制度を固定化し、少なくとも下層にいる白人には名目だけでも機会があるかのようにしていた。究極的に奴隷制は南部で1865年で終わったが、年季奉公はそうならなかった。
年季奉公制度はアメリカ独立戦争の間に中断があったものの、1780年代でもまだ広く行われていた。フェルナン・ブローデルは1783年の「アイルランドからの輸入」に関する例を挙げ、大きな利益を上げた船主あるいは船長の言葉を紹介している。
たとえば1638年、逃亡者には罰として数回の鞭打ちが成された。翌年、罰は絞首刑にまで拡大された。1641年までに法律が代わり、奉公人が契約期間満了後も奉公を延長することを申し出なければ、罰は死刑であった。奉公期間は不在となった期間の2倍が延長され、最高で7年までであった。
現代の言葉では、船主は契約者であり、その労働者を雇っていることになる。そのような条件では船長が貴重な人間という積荷に与える待遇に影響することになった。年季奉公が禁止された後で、船賃は前払いが前提となり、19世紀後半にはアイルランドの「棺桶船」の非人間的条件も改善された。
年季奉公は現在のカナダにあったハドソン湾会社でも使われており、1800年代遅くまでナナイモ周辺の炭鉱労働者として使っていた。
- アメリカ関連項目
カリブ海
16世紀と17世紀にカリブ海の諸島にやってきたヨーロッパ人は年季奉公制度を採用した。移民して来る人の大半は若い男であり、土地を所有するか直ぐにでも金持ちになる夢を抱いて、諸島への船賃と引き換えに数年間の自由を売ってきた。諸島の土地所有者は到着した奉公人の船賃を払い、食糧と住居を与えた。奉公人は主人の畑で一定期間(通常4年ないし7年)働くことを要求された。この期間の奉公人は主人の財産と考えられた。奉公人は主人の考え方で売却あるいは追放もあり、主人の許可無しでは結婚もできなかった。通常、奉公人は商品の売買を許されなかったが、奴隷とは異なり、自分の財産を持つことは認められた。主人の待遇がひどい時は、土地の判事のところに行くこともできた。年季が明けると解放され、「自由手当て」を渡された。これらの手当ては土地あるいは砂糖という現物の形を取ることもあり、それで独立した農夫あるいは自由労働者になる機会が与えられた。
年季奉公は1600年代のイングランドやアイルランドでは普通に見かけられるものであった。このころ多くのアイルランド人は誘拐されてバルバドス諸島へ連れて行かれた。「バルバドーズド」という言葉はこのような行為を指し、「レッドレッグズ」はこの行為に関わる集団を表した。1649年から1655年にかけて、オリバー・クロムウェルのアイルランドやスコットランド遠征のときに捕まえられた者も年季奉公として強制的に移住させられた。
奴隷貿易が盛んな頃は、アイルランド人が奴隷としてモントセラト島に連れてこられた。聖パトリックの祝日を祝日としているのはアイルランド共和国以外はここだけである。
1660年以後、ヨーロッパからカリブ海諸島にやって来る年季奉公人はほとんどいなくなった。ほとんどの島々ではアフリカ人奴隷が厳しい畑仕事を行った。自由の身になったばかりの奉公人は数エーカーの土地を与えられたが、砂糖は利益を出すためには数百エーカー以上のプランテーションが必要だったために、生活していけなかった。多数の奴隷を使うプランテーション所有者が残酷だという評判があり、年季奉公を考える者達を躊躇わせた。島自体が恐ろしい疫病の罠と考えられるものでもあった。一方アフリカ人は優秀な労働者であった。農業や牛を飼った経験があり、熱帯の気候にも慣れており、熱帯の病気にも耐性があり、プランテーションや鉱山で「懸命に働く」ことができた。黄熱病やマラリアおよびヨーロッパ人がもたらした病気で、17世紀の間に年季奉公人の33ないし50%は年季が明ける前に死んだとされている。
1838年にイギリス帝国で奴隷制が廃止され、プランテーション所有者は安い労働者として年季奉公に顔を向けた。これら奉公人は世界のあちこち、中国やポルトガル、特にインドから多く集められた。この仕組みはモーリシャスのアープラヴァシ・ガートで始められ1917年まで続いた。その結果インド系カリブ人はガイアナでは多数派、トリニダード・トバゴやスリナムでも多くの住人がおり、ジャマイカ、グレナダおよびバルバドス諸島などカリブ海の諸島で少なからぬ人々が生活している。
- カリブ関連項目
オーストラリアと太平洋
1860年代、オーストラリア、フィジー、ニューカレドニアおよびサモア諸島の入植者は労働力を補うために、「ブラックバーディング」と呼ばれる長期間の年季奉公人貿易を奨励した。一番盛んなときには、島で働く成人男性の半分以上が年季奉公人であった。
19世紀中頃から20世紀初頭にかけての40年間以上、オーストラリアのクィーンズランド州のサトウキビ畑労働者は、強制徴募された者や年季奉公の者達であり、南洋諸島から62,000名が集められた。メラネシアの主にソロモン諸島やバヌアツからが多く、ポリネシアやミクロネシアのサモア、キリバスおよびツバルからも少数が集められた。
どのくらいの島人が誘拐されたかについては不詳であり、議論が残されている。島人達が合法の徴募、説得、詐欺あるいは強制のどの方法によって船でクィーンズランド州に連れて行かれたかという問題も回答が難しい。当時の公式文書や証言も、労働者の子孫に語り継がれた口伝とはしばしば一致しない。露骨に暴力的な誘拐という話は、貿易の初めの10年ないし15年の間のこととされている。
オーストラリアは、1901年の太平洋諸島労働者法の規定により1906年から1908年にかけてこれらの人々を生まれ故郷に送還した[35]。
オーストラリアのパプアとニューギニアの植民地(第二次世界大戦後、パプアニューギニアとなった)は年季奉公人を使った世界でも最後の地区となった。
- オーストラリアと太平洋関連項目
インド洋
インド洋の諸島、特にモーリシャス諸島ではサトウキビのプランテーションに特化して、高い賃金を要求する解放労働者よりも安く働ける労働者を求めた。
モーリシャス諸島はこのクーリー(苦力)すなわち年季奉公人を「プラーク・トーナント」として扱っており、アフリカやインドに数十万人のクーリーを送り出していた。
1845年から1917年の間に、14万人以上のインド人がトリニダード諸島のプランテーションで働くと契約した。トリニダードに連れて行かれた年寄奉公人とアフリカ人奴隷の間には類似性があったという証言も有る。
モーリシャスとそのアープラヴァシ・ガートはそこで始まった年季奉公を世界に広めた場所と呼ぶこともできる。
- イギリス帝国関連項目
参考文献
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脚注
注釈
出典
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- ^ [1]
- ^ The Perspective of the World 1984, pp 405f
- ^ “Documenting Democracy(アーカイブされたコピー)”. 2009年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年7月4日閲覧。
関連項目
- 家事使用人
- カファラ制度