河南郡
中国地名の変遷 | |
建置 | 前205年 |
使用状況 | 唐代に廃止 |
秦 | 三川郡 |
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前漢 | 河南郡 |
新 | 河南郡 |
後漢 | 河南尹 |
三国 | 河南尹 |
西晋 | 河南郡 |
東晋十六国 | 河南郡 |
南北朝 | 河南郡 |
隋 | 河南郡 洛州 豫州 河南郡 |
唐 | 廃止 |
河南郡(かなんぐん)は、漢代から隋代にかけて現在の河南省に設置された郡。
韓の宣恵王のとき、河南に三川郡が置かれた。領域内に黄河・洛水・伊水の三川があることからその名を取られた。
紀元前249年(秦の荘襄王元年)、秦が韓を攻め、韓が成皋・鞏の地を献ずると、秦もまた三川郡を置いた[1]。
紀元前205年(漢の高帝2年)、三川郡は河南郡と改称された。前漢末には、雒陽・滎陽・偃師・京・平陰・中牟・平・陽武・河南・緱氏・巻・原武・鞏・穀城・故市・密・新成・開封・成皋・苑陵・梁・新鄭の22県を管轄した。『漢書』によれば戸数27万6444人、人口174万279人があった[2]。
後漢が建てられると、都が雒陽に定められたため、39年(建武15年)に河南郡は河南尹と改められた。河南尹は雒陽・河南・梁・滎陽・巻・原武・陽武・中牟・開封・苑陵・平陰・穀城・緱氏・鞏・成皋・京・密・新城・偃師・新鄭・平の21県を管轄した[3]。
三国時代の魏のとき、雒陽は洛陽と改められ、河南尹は洛陽・鞏・河陰・成皋・緱氏・新城・偃師・梁・新鄭・穀城・陸渾・陽城・陽翟・滎陽・京・密・巻・陽武・苑陵・中牟・開封・原武の22県を管轄した。242年(正始3年)に、滎陽・京・密・巻・陽武・苑陵・中牟・開封の8県が分離されて滎陽郡が立てられたが、魏末に河南尹の管轄にもどされた。264年(咸熙元年)に原武県が分離されて原武郡が立てられた。
西晋以後、河南尹は河南郡の称に戻された。266年(泰始2年)に滎陽郡が再び分離された[4]。南朝宋のころには、河南・新城・河陰・棘陽・襄郷の5県を領するのみとなった[5]。北魏は太武帝のときに河南郡の上に司州が置かれた。東魏のとき、司州は洛州と改称され、洛州の下に洛陽郡・河陰郡・新安郡・中川郡・河南郡・陽城郡が置かれたため、河南郡は宜遷県を管轄するのみとなった[6]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、河南郡はひとたび廃止された。605年(大業元年)、洛州は豫州に改称された。607年(大業3年)、州が廃止されて郡が置かれると、豫州は河南郡と改称された。河南郡は河南・洛陽・閿郷・桃林・陝・熊耳・澠池・新安・偃師・鞏・宜陽・寿安・陸渾・伊闕・興泰・緱氏・嵩陽・陽城の18県を管轄した[7]。
618年(武徳元年)、唐は郡を廃止して州に改めた。621年(武徳4年)、唐が王世充を破ると、河南郡は唐の支配下に入り、河南郡の呼称は姿を消した。洛州が河南・洛陽・偃師・鞏・陽城・緱氏・嵩陽・陸渾・伊闕の9県を管轄することとなった[8]。
脚注
- ^ 『史記』秦本紀
- ^ 班固『漢書』地理志第八上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫、筑摩書房、1998年)、290-293頁。
- ^ 『後漢書』郡国志一
- ^ 『晋書』地理志上
- ^ 『宋書』州郡志三
- ^ 『魏書』地形志二中
- ^ 『隋書』地理志中
- ^ 『旧唐書』地理志一
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