津軽承叙
津軽承叙 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保11年8月29日(1840年9月24日) |
死没 | 明治36年(1903年)12月7日 |
改名 | 本次郎(幼名)→朝澄(初名)→承叙 |
墓所 | 東京都台東区上野の谷中墓地 |
官位 | 従五位下・式部少輔、正三位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 陸奥黒石藩主→黒石藩知事 |
氏族 | 津軽氏(百助家)→津軽氏 |
父母 |
父:津軽順朝、母:高倉盛儀娘・芳光院 養父:津軽承保 |
兄弟 | 承祜、承叙、那須資礼養女 |
妻 | 池田仲律四女・千世子 |
子 | 類橘、男鶴、栄子ら |
津軽 承叙(つがる つぐみち[1]、津輕承敍)は、江戸時代後期の大名。陸奥国黒石藩第4代(最後)の藩主。官位は従五位下・式部少輔。のち子爵、正三位。
生涯
天保11年(1840年)8月29日、津軽氏一門・津軽氏(百助家)の津軽順朝の次男として、弘前にて誕生した。幼名は本次郎。初名は朝澄(ともずみ)。
陸奥黒石藩3代藩主・津軽承保の養子となる。嘉永4年(1851年)に承保が死去したためにその跡を継ぎ、弘前藩主・津軽順承(承保の養父で元は黒石藩2代藩主。承叙の実兄津軽承祜を養嗣子としていた。下段系図参照。)から偏諱を受け、承叙と改名した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、本家の弘前藩と行動を共にして新政府に与し、箱館に出兵した。この功績により、明治2年(1869年)に賞典金1,000両が下賜された。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。
明治17年(1884年)、華族令により子爵となる。明治23年(1890年)7月10月には貴族院の開設と共に貴族院議員(子爵議員)となり、明治30年(1897年)7月10月まで在職した[2]。明治36年(1903年)12月7日、64歳で死去した。跡を長男の類橘(るいきつ)が継いだ。墓所は東京都台東区上野の谷中墓地。
和歌の才に恵まれ、「日本英傑百首」の一人として名を連ねている。
栄典
家族
父母
妻
- 池田千世子 ー 池田仲律の四女
子女
- 津軽類橘(長男)
- 津軽男鶴(次女) ー 小笠原長育正室後に離婚
- 津軽栄子(四女) ー 加藤泰成正室
略系図
津軽信政弘4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
信壽弘5 | 寿世黒(4) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
信興 | 著高黒(5) | 朝儀 | |||||||||||||||||||||||||||||||
信著弘6 | 寧親黒(6)→弘9 | 朝定 | |||||||||||||||||||||||||||||||
信寧弘7 | 信順弘10 | 典暁黒(7) | 順朝 | ||||||||||||||||||||||||||||||
信明弘8 | 親足黒(8)→1 | 承祜※a | 承叙※b | ||||||||||||||||||||||||||||||
順徳(順承)黒2→弘11 | 承保黒3 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
承祜※a | 承昭弘12 | 承叙黒4※b | |||||||||||||||||||||||||||||||
- 実線は実子、点線は養子を示す。
- すべての人物を掲載してはおらず、また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
- ※印は、同じ英字を付した人物が同一人物であることを示す。
- 「弘」を付した数字は弘前藩主代数、「黒」を付した数字は黒石藩主代数(( )内はは旗本としての代数)を示す。
脚注
参考文献
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史』大蔵省印刷局、1962年。
衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (黒石)津軽家初代 1884年 - 1903年 |
次代 津軽類橘 |