耆英
|
この項目では、清朝の人物について説明しています。船舶については「耆英 (船)」をご覧ください。 |
耆英(きえい、満洲語: ᠬᡳᡳᠩ 転写:kiing[1]、乾隆52年2月3日(1787年3月21日) - 咸豊8年5月19日(1858年6月29日))は、清朝の人物。愛新覚羅氏の出身で、太祖ヌルハチの弟のムルハチ(穆爾哈斉)の末裔である。
アヘン戦争で清朝が劣勢に陥ると、道光帝の命で和平交渉にあたった。1842年、清国全権として南京条約を締結した。その後、五港通商章程・虎門寨追加条約(虎門条約)の締結や、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約の締結に臨んだ。アロー戦争に際して対英交渉が錯綜する中で責任を問われ、1858年、北京で自殺に追い込まれた。
関連項目
脚注
- 先代
- ボキトゥ(博啓図)
|
- 礼部満尚書
- 1829-1834
|
- 次代
- センギン(昇寅)
|
- 先代
- ボキトゥ(博啓図)
|
- 工部満尚書
- 1834
|
- 次代
- 敬徴(ギンジェン)
|
- 先代
- ムジャンガ(穆彰阿)
|
- 戸部満尚書
- 1834-1836
|
- 次代
- 奕顥(イハオ)
|
- 先代
- 嵩溥(スンブ)
|
- 熱河都統
- 1837-1838
|
- 次代
- 恵吉(フイギ)
|
- 先代
- 宝興(ボーヒン)
|
- 盛京将軍
- 1838-1842
|
- 次代
- 禧恩(ヒエン)
|
- 先代
- 牛鑑
|
- 両江総督
- 1842-1843
|
- 次代
- 壁昌(ビチャン)
|
- 先代
- 壁昌(ビチャン)
|
- 両江総督
- 1843-1844
|
- 次代
- 壁昌(ビチャン)
|