若生照元
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 宮城県仙台市 |
生年月日 | 1937年7月10日(86歳) |
身長 体重 |
174 cm 70 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1960年 |
初出場 | 1960年4月17日 |
最終出場 | 1963年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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若生 照元(わこう てるもと、1937年7月10日 - )は、宮城県仙台市出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴
東北高校時代は若生忠男・若生智男と共に「東北の三若生」と呼ばれたが、甲子園には届かなかった。高校卒業後は1956年に中央大学へ進学。東都大学野球リーグでは低目を突く速球と威力あるシュートを武器に活躍する。3年次の1958年春季リーグでは東京農業大学戦でノーヒットノーランを達成[1]し、5年ぶりの優勝に貢献。同年の大学野球日本選手権では、決勝で立教大学に惜敗して準優勝。1年上には後に大洋でチームメイトとなる桑田武・森田斌、同期には小栗秀夫、西山弘二(広島)・本田威志がいた。
大学卒業後の1960年、本田と共に大洋ホエールズへ入団。1年目の阪急とのオープン戦(西京極)では、東北高の後輩で同期入団の波山次郎と共にデビュー。若生は3回を投げて3安打無得点に切り抜け、バッテリーを組んだ島野雅亘に注意するなど新人離れしたプレート捌きも見せた。開幕後は4月17日の広島戦(広島市民)で初登板を果たすが、4番打者の興津達雄に3点本塁打を献上。シーズン最終戦となった10月5日の広島戦では先発に起用されるが、横溝桂に本塁打を打たれるなどして2回で降板。2年目の1961年以降も結果を残せず、一時は打者転向に挑戦するが、1963年限りで現役を引退。
引退後は大洋→横浜で営業・本部長・スカウト部長・球団代表を歴任し、スカウト時代には高校の後輩・佐々木主浩を担当。1995年からは球団の商品部を独立させて創設した「ベイスターズサービス」の代表取締役社長に就任。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1960 | 大洋 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 21 | 4.0 | 7 | 2 | 4 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 4 | 4 | 9.00 | 2.75 |
1961 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 33 | 8.0 | 10 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 3 | 3 | 3.38 | 1.38 | |
1962 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 20 | 4.1 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 9.00 | 1.62 | |
1963 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 3 | 1.0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.00 | |
通算:4年 | 13 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | .000 | 77 | 17.1 | 24 | 2 | 5 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0 | 12 | 12 | 6.23 | 1.67 |
背番号
- 22(1960年 - 1963年)
脚注
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 若生照元 - NPB.jp 日本野球機構