蓼 (駆逐艦)


昭和8年頃の蓼
艦歴
計画 八四艦隊計画
起工 1920年12月20日
進水 1922年3月15日
就役 1922年7月31日
その後 1943年4月23日戦没
除籍 1943年7月1日
性能諸元
排水量 常備:850トン
全長 85.3メートル
全幅 9.79メートル
吃水 2.4メートル 
機関 ブラウン・カーチス式オールギヤードタービン2基2軸
ロ号艦本式罐3基
21,500馬力
最大速 36ノット
航続距離 3,000/14ノット
兵員 110人
兵装
(竣工時)
45口径12cm単装砲3基
7.7mm連装機銃2艇
53cm魚雷発射管2基4門

(たで)は、日本海軍駆逐艦樅型の21番艦である。その艦名はタデ科タデ属の植物の総称・蓼に由来している。

艦歴

1920年12月20日藤永田造船所で起工。1922年3月15日進水1922年7月31日、竣工。

1937年8月、支那事変に参加し華北沿岸作戦にも参加。

1940年4月1日哨戒艇に類別。「第39号哨戒艇」と改名。

1942年3月から4月には西部ニューギニア戡定作戦に参加。

1943年4月23日石垣島南方で潜水艦の発射した魚雷を受けて漂流中の「第2日新丸」を監視中、与那国島南方にて米潜水艦シーウルフ(USS Seawolf, SS-197)の雷撃を受け沈没。

1943年7月1日、除籍。

シーウルフから撮影された第39号哨戒艇の最期、その1
シーウルフから撮影された第39号哨戒艇の最期、その2

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。階級は就任時のもの。

艤装員長

  • 和田省三 少佐:1922年5月15日 - 7月31日

駆逐艦長

  • 和田省三 少佐:1922年7月31日 - 12月1日
  • 石戸勇三 少佐:1922年12月1日 - 1923年5月1日[1]
  • (心得)池田七郎 大尉:1923年5月1日[1] - 12月1日[2]
  • 池田七郎 少佐:1923年12月1日[2] - 1925年1月15日[3]
  • 武石秀登 少佐:1925年5月15日[4] - 11月10日[5]
  • 古瀬倉蔵 少佐:1925年12月1日[6] - 1926年12月1日[7]
  • 小林謙五 少佐:1926年12月1日 - 1927年5月14日
  • 畠山耕一郎 少佐:1927年5月14日 - 12月1日
  • 隈部勇 少佐:1927年12月1日[8] - 1929年2月20日[9]
  • 平井泰次 少佐:1929年2月20日 - 1930年12月1日
  • 杉浦嘉十 少佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  • 荘司喜一郎 少佐:1931年12月1日 - 1932年11月15日
  • 小田操 少佐:1932年11月15日[10] - 1933年11月1日[11]
  • 有本輝美智 大尉:1933年11月1日[11] - 1935年11月15日[12]
  • 家木幸之輔 少佐:1937年7月29日[13] - 1938年11月15日[14]
  • 浜中脩一 少佐:1938年11月15日[14] - 1939年2月20日[15]

脚注

  1. ^ a b 『官報』第3224号、大正12年5月2日。
  2. ^ a b 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
  3. ^ 『官報』第3718号、大正14年1月16日。
  4. ^ 『官報』第3817号、大正14年5月16日。
  5. ^ 『官報』第3965号、大正14年11月11日。
  6. ^ 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
  7. ^ 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
  8. ^ 『官報』第279号、昭和2年12月2日。
  9. ^ 『官報』第642号、昭和4年2月21日。
  10. ^ 『官報』第1765号、昭和7年11月16日。
  11. ^ a b 『官報』第2053号、昭和8年11月2日。
  12. ^ 『官報』第2663号、昭和10年11月16日。
  13. ^ 海軍辞令公報 号外 第13号 昭和12年7月29日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072100 
  14. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)号外 第261号 昭和13年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074600 
  15. ^ 海軍辞令公報(部内限)第303号 昭和14年2月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075400 

参考文献

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。

関連項目