裴世清
裴 世清(はい せいせい、生没年不詳)は、6世紀後半 - 7世紀前半の中国隋・唐代の官吏。本貫は河東郡聞喜県。隋の煬帝による命令で俀國(倭国)を訪れた使者として名が知られている。『隋書』では裴清と記されている。
出身・略歴
唐代に17人の宰相を生んだ河東郡の大姓裴氏の支族の中眷裴氏の出身で、父の名は裴著。子は斉州司馬の裴嘉陵がいる。唐では主客郎中・江州刺史をつとめたことが伝えられている。
隋書
『隋書』によれば、俀王多利思北孤は大業3年(607年)に第2回遣隋使を派遣した。煬帝はその国書で王が自分と並ぶ天子を自称したことに立腹したが、大業4年(608年)、文林郎である裴清(世については太宗(唐の第二代皇帝李世民)の諱世民のため避諱された)をその答礼使として派遣した。大海の都斯麻國(対馬)、東に一支国、竹斯国(筑紫)、そして東に進み、秦王国(辰王国?)に着いたという。そこの人々は華夏人(中国人)と同じで、夷州の地と言われるのは理解出来ないとしている。竹斯国から東はすべて俀であるという。俀王は小徳(冠位十二階の第2位)阿輩臺(阿倍鳥か)ら数百人に迎えさせ、10日後に大礼(冠位第5位)の哥多毗(額田部比羅夫か)が200騎で警護した。王と会った清は王の歓迎の言葉に皇帝の命を伝えた。館に入る前の清の言葉は後述の『日本書紀』が記す国書の要約になっているが、この時は「王」と呼んでいる。『隋書』は国書を記していない。その後、清は使者とともに帰国した。
明年上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟行至竹嶋南望𨈭羅國經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀 俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百余騎郊勞 既至彼都 其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國 故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不即相見 今故清道飾館以待大使 冀聞大國惟新之化 清答曰皇帝德並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引清就館 其後清遣人謂其王曰朝命既達 請即戒塗 於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物 — 『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國[1][2]
三国史記
『三国史記』巻第27 百済本紀第5 武王9年3月によれば「九年 春三月 遣使入隋朝貢 隋文林郎裴淸奉使倭國 經我國南路[3]」とあり裴清は百済南部を経由したことが記述されている。
日本書紀
『日本書紀』では次のとおり裴世清と記されている。12人の従者を従え、小野妹子とともに筑紫に着き、難波吉士雄成が招いた。難波高麗館の上に館を新しく建てた。6月15日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。8月3日に京に入った。12日に朝廷で「鴻臚寺の掌客」である裴世清は自ら「皇帝問倭皇」という書を持ち、使いの旨を言上して読み上げた。9月5日に難波大郡に、11日に帰国の途についた。
即大唐使人裴世清 下客十二人 従妹子臣 至於筑紫 遣難波吉士雄成 召大唐客裴世清等 為唐客更造新館於難波高麗館之上(中略)六月壬寅朔丙辰 客等泊于難波津 是日 以飾船三十艘 迎客等于江口 安置新館 於是 以中臣宮地連烏磨呂 大河內直糠手 船史王平為掌客 (中略)秋八月辛丑朔癸卯 唐客入京是日 遣飾騎七十五匹 而迎唐客於海石榴世衢 額田部連比羅夫以告禮辭焉 壬子 召唐客於朝廷 令奏使旨 時阿倍鳥臣 務部依網連抱 二人為客之導者也 於是大唐之國信物置於庭中 時使主裴世清親持書 兩度再拜 言上使旨而立之 其書曰 皇帝問倭皇 使人長吏大禮蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境內安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別 時阿倍臣出進 以受其書而進行 大伴囓連迎出承書 置於大門前机上而奏之 事畢而退焉 (中略)丙辰 饗唐客等於朝 九月辛未朔乙亥 饗客等於難波大郡(中略)辛巳 唐客裴世清罷帰 — 『日本書紀』推古天皇条
『日本書紀』では入京時に額田部比羅夫が歓迎の言葉を述べているが、『隋書』では入京時に王が自ら迎えて言葉を述べ、館に導いたとあり、朝廷での国書の読み上げなどは省略されている。また朝廷で裴世清を迎えた阿倍鳥(阿輩台)が『隋書』では比羅夫の十日前にも迎えに出ており、『隋書』の方が手厚い歓迎ぶりである。「倭皇」は倭王の「天子」自称に譲歩したもので、倭への冊封としながらも「皇帝」の「皇」を与えているが、『日本書紀』の改竄とする見解が多い。
その他
『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』所引の丈六光銘にも、大隋国使主鴻臚寺掌客裴世清と使副尚書祠部主事遍光高らの来朝の記事が記されている。
注
参考文献