貞純親王

貞純親王
時代 平安時代前期
生誕 貞観15年(873年)? 、貞観12年(870年)3月10日?[1]、貞観16年(874年)3月23日?[2]
薨去 延喜16年5月7日916年6月10日
別名 桃園親王
官位 四品兵部卿
父母 父:清和天皇、母:棟貞王の娘
兄弟 陽成天皇、貞固親王、貞元親王貞保親王、貞平親王、貞純親王、孟子内親王、包子内親王、敦子内親王貞辰親王識子内親王貞数親王貞真親王、貞頼親王、源長猷、源長淵、源長監、源長頼、源載子
源柄子
源経基、源経生(経主)
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貞純親王(さだずみしんのう)は、平安時代前期の皇族清和天皇の第六皇子桃園親王と号す。

経歴

貞観15年(873年貞固貞元貞保清和天皇の皇子7名・皇女4名とともに親王宣下を受ける。

宇多朝にて親王任国である上総上野太守を務めたほか、中務卿兵部卿を歴任したが、位階は四品に留まった。当時の人々の夢に一条大宮の桃園池に住む七尺のとして現れたところから桃園親王と号す[3]。一条北大宮西にあった邸宅は摂政藤原伊尹の手に渡り、のちに世尊寺となった[4]

醍醐朝延喜16年(916年)5月7日薨去

系譜をめぐる議論~清和源氏説と陽成源氏説をめぐって~

経基・経生の両王子が共に源姓を賜与され臣籍降下したことから、貞純親王は清和源氏の祖の一人となった。ただし、異説として、従来の貞純親王流とされる清和源氏は陽成天皇(親王の兄)からつながる血筋(陽成源氏)とする説もある。清和源氏の祖とされた経基王が陽成天皇の皇子・元平親王の皇子ではないかとする説である。これは明治の歴史学者星野恒の唱えたもので、明治30年代に石清水八幡宮祠官田中家文書の中に源頼信応神天皇陵に納めたとされる永承元年(1046年)告文に「先人新発其先経基其先元平親王其先陽成天皇其先清和天皇」と明記してある事を根拠としたもの。しかしこの文書は写本であり、告文の裏面に校正したと但書きがあることから信憑性が疑われている。また、告文の内容は河内石川庄の相続順序に過ぎないとする説や、12世紀はじめに書かれた「大鏡」が武家源氏を清和天皇の末としていることもあり、清和源氏が正しいとする学者が多くいる。

官歴

系譜

注記のないものは『尊卑分脈』による。

脚注

  1. ^ 『系図纂要』
  2. ^ 『諏訪家譜』
  3. ^ a b 『尊卑分脈』
  4. ^ 『小右記』長保3年2月29日条
  5. ^ 『日本三代実録』
  6. ^ 『母后代々御賀記』
  7. ^ 『扶桑略記』
  8. ^ 『日本紀略』
  9. ^ 『本朝皇胤紹運録』

参考文献