閑院宮
閑院宮家 | |
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家祖 |
閑院宮直仁親王 (東山天皇の第6皇子) |
種別 |
皇族 (世襲親王家・直宮家) |
出身地 | 京都(山城国愛宕郡) |
主な根拠地 |
京都(山城国愛宕郡) 東京都 |
著名な人物 |
典仁親王 載仁親王 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
閑院宮(かんいん の みや)は、四世襲親王家の一つで、江戸時代中期に直仁親王(東山天皇第六皇子・中御門天皇弟)が創設した宮家。
第二代当主典仁親王(慶光天皇)の第六男子兼仁親王は、傍系・中御門天皇系である後桃園天皇(中御門天皇の曾孫)が崩御したことにより光格天皇として皇位を継承。光格天皇は後に、後桃園天皇の唯一の子女である欣子内親王を中宮に冊立し、温仁親王と悦仁親王(中御門天皇の来孫)をもうけるが何れも嗣子なく薨去し、中御門天皇の皇統は女系も含めて完全に途絶えてしまう。その後、光格天皇の典侍である勧修寺婧子がもうけた仁孝天皇が皇位を継承して以来、閑院宮の血統が今上天皇たる現在の皇室まで皇統として続いており、仁孝から徳仁までの歴代天皇は全て1親等の直系子孫たる皇太子により皇位が継承され現在に至る。
閑院宮の宮号は平安時代の貞元親王(清和天皇皇子)が閑院を号したことに由来するといわれているが、明確ではない。
創設
当時の朝廷では、皇位継承予定者以外の親王は世襲親王家を継承する例外を除いては出家して法親王となることが慣例となっていた。ところが、承応3年(1654年)後光明天皇が22歳で崩御したときに天皇の近親の皇族男子はほとんどど出家していて、その後継問題で紛糾した。都が平安京に移って以降、いったん出家した皇族が還俗して践祚した例はなく、このとき院政を敷いていた後水尾法皇はその第19皇子である高貴宮(後の霊元天皇)を践祚させようとしたが、高貴宮は生後間もなかったので、四世襲親王家の一つである有栖川宮(花町宮)を継承していた良仁親王が高貴宮が成長するまでの間の中継ぎとして践祚して、後西天皇となった。その苦い経験から、皇統の断絶を危惧した新井白石が、徳川将軍家に御三家があるように、朝廷にもそれを補完する新たな宮家が必要との建言を将軍徳川家宣に出した。
一方、同様の危機感を抱いていた東山天皇も家宣の舅でもある関白・近衛基熙を通じて、実子である秀宮(直仁親王)に新宮家を創設させるための財政的支援を求めてきた。このため、宝永7年8月11日(1710年9月4日)、直仁親王を初代とする新宮家創設が決定され、8年後に霊元法皇(東山天皇の父、天皇は1709年(宝永6年)に崩御)より直仁親王に対して閑院宮の宮号と1000石の所領を下賜された。こうして、寛永2年(1625年)の有栖川宮(高松宮)が創設されて以来の新宮家誕生となった。その屋敷地は、京都御苑の南西部に与えられた。
霊元法皇が新宮家創設に反対したとする説があるが、法皇の天皇在位中にも新宮家創設を要望して拒否された経緯があり、自分の代には認めず親幕府派の東山天皇の要望によって認めたことへの不満があったとされている。
系譜
- 初代 直仁親王(東山天皇の第六皇子)
- 二代 典仁親王(光格天皇の実父、明治時代になってから「慶光天皇」の諡号および太上天皇の尊号を贈られる)
- 三代 美仁親王(光格天皇の異母兄)
- 四代 孝仁親王(仁孝天皇の従兄)
- 五代 愛仁親王(孝明天皇の再従兄)
- 六代 載仁親王(伏見宮邦家親王王子)
- 七代 春仁王(皇籍離脱、閑院春仁と名乗る)
霊元天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
東山天皇 | 福子內親王 | 伏見宮邦永親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
典仁親王 2 | 鷹司輔平 (鷹司家継承) | 倫子女王 (五十宮・徳川家治室) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
美仁親王 3 | 光格天皇 | 鷹司政煕 | (4代略) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
孝仁親王 4 | 仁孝天皇 | 鷹司政通 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
愛仁親王 5 | 孝明天皇 | 鷹司輔煕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明治天皇 | 治子 | 三条実美 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正天皇 | 智恵子 | 載仁親王 6 (伏見宮邦家親王王子) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和天皇 | 春仁王 7 [皇籍離脱] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 | (1)栄仁親王 | (2)治仁王 | 後花園天皇 | 後土御門天皇 | 後柏原天皇 | 後奈良天皇 | 正親町天皇 | A | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(3)貞成親王 (後崇光院) | (4)貞常親王 | (5)邦高親王 | (6)貞敦親王 | (7)邦輔親王 | (8)貞康親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(9)邦房親王 | B | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
A | 誠仁親王 | 後陽成天皇 | 後水尾天皇 | 霊元天皇 | 東山天皇 | 中御門天皇 | C | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
B | (10)貞清親王 | (11)邦尚親王 | 福子内親王 | (閑院宮1)直仁親王 | D | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(12)邦道親王 | (15)貞建親王 | E | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(13)貞致親王 | (14)邦永親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
C | 桜町天皇 | 桃園天皇 | 後桃園天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(17)貞行親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
D | (閑院宮2)典仁親王 | (閑院宮3)美仁親王 | (閑院宮4)孝仁親王 | (閑院宮5)愛仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光格天皇 | 仁孝天皇 | 孝明天皇 | 明治天皇 | 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(16)邦忠親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
E | (18)邦頼親王 | (19)貞敬親王 | F | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
F | (20/23)邦家親王 | (山階宮1)晃親王 | (梨本宮2/山階宮2) 菊麿王 | (山階宮3)武彦王 (皇籍離脱) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(梨本宮1)守脩親王 | (久邇宮1)朝彦親王 | (賀陽宮1)邦憲王 | (賀陽宮2)恒憲王 (皇籍離脱) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(久邇宮2)邦彦王 | (久邇宮3)朝融王 (皇籍離脱) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(梨本宮3)守正王 (皇籍離脱) | 香淳皇后 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多嘉王 | 第125代天皇 明仁(上皇) | 第126代天皇 徳仁(今上天皇) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(21)貞教親王 | (朝香宮)鳩彦王 (皇籍離脱) | 昭和天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(東久邇宮)稔彦王 (皇籍離脱) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小松宮彰仁親王 | (竹田宮1)恒久王 | (竹田宮2)恒徳王 (皇籍離脱) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(北白川宮2)能久親王 | (北白川宮3)成久王 | (北白川宮4)永久王 | (北白川宮5)道久王 (皇籍離脱) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小松輝久 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(華頂宮1)博経親王 | (華頂宮2)博厚親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(北白川宮1)智成親王 | (25/華頂宮3) 博恭王 | 博義王 | (26)博明王 (皇籍離脱) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(22/24)貞愛親王 | 邦芳王 | (華頂宮4) 博忠王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(閑院宮6)載仁親王 | (閑院宮7)春仁王 (皇籍離脱) | 華頂博信 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(東伏見宮)依仁親王 | 伏見博英 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
歴代当主
第二代典仁親王(すけひと しんのう)の時に、新井白石の慧眼が実際に役立つこととなった。後桃園天皇が崩御し、天皇には崩御の年に誕生した皇女が一人いるだけであった。そこで、典仁親王の第六王子の祐宮師仁王が光格天皇として即位した。なお、光格天皇の皇后は後桃園天皇の皇女の欣子内親王である。光格天皇は、実父典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうと考えたが、将軍徳川家斉が父一橋治済に大御所の称号を贈ることを嫌った、老中松平定信の反対に遭い、朝幕間は緊張した(尊号一件・尊号事件)。なお、この事件で天皇と定信の双方を説得にあたって事態収拾を図った関白鷹司輔平は初代直仁親王の末子で典仁親王の実弟に当たる。典仁親王は和歌の門弟をとっており、光格朝にはその歌壇に参加する公家が少なくなかった。門弟の筆頭格が芝山持豊であったが、彼が本居宣長に傾倒していたことは、宣長が少なからぬ公家と交際するようになったことの一因であろう。宣長は典仁親王の王子、妙法院宮真仁法親王に命ぜられて歌を献じている。真仁法親王は円山応挙、呉春らを引き立てたことでも知られ、複数の民間歌人とも交際があった。
典仁親王の後は、第三代美仁親王(はるひと - )、第四代孝仁親王(たつひと - )、第五代愛仁親王(なるひと - )と続くが、愛仁親王は25歳の若さで薨去。後嗣が無かったため、孝仁親王の妃で愛仁親王の生母の鷹司吉子(初代直仁親王の曾孫)が当主格とされた。明治時代に入り、伏見宮邦家親王の王子である載仁親王(ことひと - )を迎える。
明治5年(1872年)1月に閑院宮家を継いだ載仁親王は、フランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校・陸軍騎兵学校・陸軍大学校を卒業し、帰国。1891年(明治24年)、三条実美の二女・智恵子と結婚。参謀本部に勤務の後、騎兵旅団長。日露戦争では、満州軍総司令部付きの武官として従軍した。1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥の称号を賜った。1931年(昭和6年)から1940年(昭和15年)まで参謀総長を務めた。1945年(昭和20年)5月、81歳で薨去。国葬を賜る。また、稀に見る美男子であった。
第七代春仁王(はるひと おう)は、載仁親王の第二王子として、1902年(明治35年)に誕生。公爵一条実輝の娘・直子と結婚。その後、陸軍大学校兵学教官などを経て、第二次世界大戦終戦時は陸軍少将として戦争継続を主張した。戦後の皇籍離脱の論議では、皇室の藩屏[字引 1]が失われるとして反対の論陣を張ったが、1947年(昭和22年)に皇籍離脱。閑院氏を名乗り、純仁(すみひと)と改名した。戦後の新生活は波乱とスキャンダルに満ちたもので、閑院純仁は実業家としては成功を収めたものの、直子とは離婚。妹の華子女王は、皇族出身の元侯爵・華頂博信と結婚したが、恋愛スキャンダルを起こし離婚。純仁は怒りの余り、兄妹の縁を切るまでに至った。その後純仁は1988年(昭和63年)6月、85歳で死去。純仁に実子はなく、また養子を取らなかったので閑院家は断絶となる。
閑院宮邸跡収納展示館
環境省京都御苑管理事務所によって京都御苑の敷地内で保存・管理されている[1][2]閑院宮邸跡収納展示館は、江戸時代の公家住宅として、ほぼ完全な形で残る唯一のものである。史跡としては「閑院宮邸跡」名義[2][gm 1](現在住居表示:京都府京都市上京区京都御苑3[gm 2]。その区画内の南西端に所在)。江戸時代の宮家の生活を知ることができる貴重な遺構である。2003年(平成15年)から3ヶ年をかけて全面的に整備され[3]、一般に見学することができる。ただし、庭園にある池は3分の2しか整備されておらず、残りの3分の1/は相変わらず地中に眠ったままである。有識者や市民から、早期の庭園完全復旧の声が非常に高まっている。磨き抜かれた欅材(けやきざい)の床板に新緑が映りこむ「床みどり」は、邸の観光面での売りの一つ[4][5]。
閑院宮家の当時の敷地は現代のものより広大であり、東は九条池(九条邸の庭園)のすぐ隣まであったとされている。
京都御苑内には、閑院宮邸跡収納展示館のほかにも、桂宮邸(非公開・現在宮内庁職員宿舎の敷地として利用)が残っている。
閑院宮邸と松殿家
江戸時代に閑院宮邸のあった場所には、かつて[いつ?]松殿家邸があった。松殿家は「第六の摂関家」ともいわれる「まぼろしの摂関家」である。木曾義仲とともに繁栄と衰退をし、断絶した。
幕末の領地
国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の閑院宮領は以下の通り。(4村・1,016石余)
四親王家で唯一、山城国ではなく摂津国に所領を有した。
脚注
注釈
- 字引
- Googleマップ
- ^ 旧閑院宮邸(地図 - Google マップ)
- ^ 上京区京都御苑3(地図 - Google マップ)
出典
参考文献
- 『歴史読本 2006年11月号 (No.807)』(月刊)新人物往来社〈歴史読本〉、2006年9月22日。ASIN B000IFRVQI。
- 若松正志「閑院宮家の創設」120-127頁。
関連項目
外部リンク
- “閑院宮邸跡収納展示館”. 公式ウェブサイト. 京都御苑、閑院宮邸跡収納展示館. 2020年11月5日閲覧。
- 環境省京都御苑管理事務所. “閑院宮邸跡”. 公式ウェブサイト. 京都御苑. 環境省. 2020年11月5日閲覧。