エルヴィス・プレスリー

エルヴィス・プレスリー
1957年公開の映画『監獄ロック』プロモーション時
基本情報
出生名 エルヴィス・アーロン・プレスリー
生誕
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 テネシー州メンフィス
死没
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間 1954年 - 1977年
レーベル
著名使用楽器

エルヴィス・アーロン・プレスリーElvis Aron Presley1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカのロック歌手、ミュージシャン映画俳優。全世界のレコードカセットCD等の総売り上げは5億枚以上とされている[8][9]史上最も売れた音楽家の一人[10][11]。「キング・オブ・ロックンロール」と称される[12]ミドルネーム公文書サイン共にAronだが、墓石にはAaronと表記されている[13]

概要

1950年代にチャック・ベリーファッツ・ドミノリトル・リチャードカール・パーキンスジェリー・リー・ルイスビル・ヘイリー[14] と共にロック・アンド・ロール(ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大なる影響を与えた。その功績からキング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「史上最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている[15]1950年代に、アメリカイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀後半のポピュラー音楽の中で、最初の大きなムーブメントを引き起こした。また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。ジョン・レノンボブ・ディランポール・マッカートニーボブ・シーガーフレディ・マーキュリー、テリー・スタッフォード[16]など、多くのロック、ポップのミュージシャンたちが憧れたことでも知られる(下段・フォロワーを参照)。

初期のプレスリーのロカビリー・スタイルは、黒人の音楽であるブルースリズムアンドブルース白人音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを融合した音楽であるといわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカでは画期的なことであった。

その後全国的な人気を得たが、白人社会だった当時は保守層から「プレスリーはセックス狂」や「彼は白人を黒人に陥れる」など、凄まじい批判を受けた。「ロックンロールが青少年非行の原因だ」と中傷され、「骨盤ダンス」も問題となり、PTAテレビ放送の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。KWK FM & AMラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送[17]。さらにフロリダの演奏では、下半身を動かすなとPTAYMCAに言われ小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。

そんな激しい批判の中でもプレスリーは激しいパフォーマンスをやめず、若者を釘付けにしていった。当時プレスリーは、自身に影響を与えた黒人アーティストのリスペクトを、インタビューなどで公に答えており、「ロックンロールが非行の原因になるとは思わない」とも答えている。また、プレスリーは自身のロックンロールについて「セクシーにしようとは思っていない。自分を表現する方法なんだ」「オレは人々に悪影響を与えているとは思わない。もしそう思ったら、オレはトラック運転手に戻るよ。本気でそう思っている」と答えている。

プレスリーの音楽によって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなった。また、いままで音楽を聞かなかった若年層(特に若い女性)が、音楽を積極的に聞くようになり、ほぼ同時期に普及した安価なテレビジョンレコードプレーヤーとともに音楽消費を増加させる原動力になった。さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などの流行も若者たちの間に芽生え、若者文化が台頭した。晩年はその活動をショーやコンサート中心に移した。1977年8月16日、自宅であるグレイスランドにて42歳の若さで死去した。

プレスリーの記録は多数あり、例えば、最も成功したソロアーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト(死の翌日)、等がギネスによって認定されている。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第3位。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位[18]

経歴

生い立ち

プレスリーは1935年1月8日、ミシシッピ州テュペロの小さな家(トイレも水道も無い掘立小屋)で生まれた。父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー(1916〜79)、母グラディス・ラブ・プレスリー(1912〜58)の3人家族であった(プレスリーには双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している)。父ヴァーノンが不渡小切手で服役するなど非常に貧しい幼少時代であったが、両親はエルヴィスを大事に育てた。

熱心なキリスト教プロテスタント(新教)の信者[19] で、ペンテコステ派[20]であり、9歳の時に洗礼を受けた。11歳の誕生日にはライフルを欲しがったが、当然母親に却下され、代わりに与えられたのがギターであった。これを機に自宅の地下洗濯部屋で練習し音楽に傾倒していった。

1948年、プレスリーが13歳の時にテネシー州メンフィスへと引っ越した。下宿生活を経て、1949年に一家はメンフィスにあるロウダーデール・コート公営住宅に転居した。メンフィスは非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、そのような環境の中で黒人の音楽を聴いて育った。エリス公会堂のゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていた。ある日、毎回欠かさず観に来ていたエルヴィスだったが、入場料を払えないとの理由で1度欠席した。これに気を留めたのがJ.D.サムナーで「じゃあ次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、エルヴィスは無料でショーを観ることができた(1970年代のコンサートではJ.D.サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊として迎えている)。このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされる。プレスリーは高校卒業後、精密金型会社で働いた後にクラウン・エレクトリック社に転職しトラック運転手として働いていた。

サン・レコード時代

サン・レコード時代のエルヴィス(1954年)

1953年の夏にプレスリーはメンフィスサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード “My Happiness”“That’s When Your Heartaches Begin” であった。

サン・レコードの創業者サム・フィリップス[21]とアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じ、1954年6月に行方不明の歌手の代理としてプレスリーを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、サムは地元のミュージシャン、スコッティ・ムーア[22]ビル・ブラックと共にプレスリーを売り出すこととした。プレスリーは最初「The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから、(彼に批判的な人々から)「Elvis the Pelvis骨盤のエルヴィス)」と呼ばれた。

1954年7月5日のリハーサル休憩中にプレスリーは“That’s All Right, Mama”[23] をいじくり始め、サムはプレスリーが適所を得たかもしれないと考えて録音ボタンを押した。即興での演奏でドラムスが不在であったため、ベースをかき鳴らしての演奏となった。B面に“Blue Moon of Kentucky”が収録されたシングルは、WHBQラジオが放送した二日後に、メンフィスでのローカル・ヒットとなった。ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしていた。

また、公演旅行はプレスリーの評判をテネシー中に広げることとなった。しかし「初舞台の時には死ぬほど緊張した。観客の声が怖かったんだ」との言葉も残っている。また、プレスリーがツアーをはじめた時、ツアー先の白人プロモーターから「黒人娘(コーラスを務めた“ザ・スウィート・インスピレーションズ”のことを言ったものだが、実際にはもっとひどい差別的な言い方をされた)は連れてこないでくれ」と連絡を受けたことが度々あった。プレスリーは「彼女たちを来させないなら僕も行かない」と言い張り、向こうが謝罪し多額のお金を積んだが、絶対に行かなかった。

このエピソードの様に、公民権法が施行される前の1950年代のアメリカでは、音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っていた。当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲をパット・ブーンらの白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。

サンとの契約下でプレスリーは5枚のシングルをリリースした。

「ザッツ・オールライト」はビッグボーイ・クルーダップ(アーサー・クルーダップ)のカバーである。多くはリズム・アンド・ブルース、またはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のカバーであった。レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコッティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1分55秒、最長のもので2分38秒である。

1955年8月18日にプレスリーの両親はプロデューサーのトム・パーカー(通称・パーカー大佐)との契約書に署名し、サン・スタジオとの関係は終了した。

RCAとの契約

ハーレー・ダビッドソンに乗るエルヴィス(1956年)
リベラーチェとエルヴィス(1956年)
エド・サリヴァンとエルヴィス(1956年)

プレスリーは1955年11月21日RCAビクターと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」にてTVに初出演し、黒人のR&Bを歌う。そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。しかし、その激しい非難にもかかわらず、それを見た若者たちは、プレスリーのファンになっていった。

1956年1月27日に第6弾シングル “Heartbreak Hotel / I Was the One” がリリースされた。これは1956年4月にチャートの1位に達した。Heartbreak Hotel はその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。

レコーディング場所について1950年代はニューヨークにあるRCAスタジオを利用したことがあったが、プレスリーのキャリアにおいて、主演映画の挿入歌以外のレコーディング場所で最も利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。しかし、1972年以降はハリウッドにあるRCAスタジオや地元メンフィスのスタジオを利用した。更に1976年になると、RCAスタッフがプレスリーの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込み、レコーディングを行った。

後年レコーディング自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングやアレンジがプレスリーの意向にそぐわなかったことや良質な楽曲がなくなったこと、コーラスがプレスリーの要求にこたえられなかったこと、体調面など様々な理由があった。

プレスリーは一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のスタジオ・ライブ形式のレコーディング・スタイルにこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式やパートごとの別録りといった選択肢もあったが、プレスリーはそれを嫌い、現在まで発表された曲数が700以上ある中で、そのような形式で発表した曲は少ない)。そのため、プレスリーの死去後現在まで様々な未発表テイクが発掘されており、その中には発表されたテイクと違った趣向のものもある。後年、レコーディングに関心がなくなった頃は、体調不良を訴え、「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったが、ほとんどの場合、それは実現しなかった。

1956年12月4日、プレスリーはカール・パーキンスジェリー・リー・ルイスがレコーディングしているサン・レコードに立ち寄り、彼らとジャム・セッションを行なった。フィリップスにはもうプレスリーの演奏をリリースする権利はなかったが、このセッションを録音した。ジョニー・キャッシュも共に演奏していたと長い間考えられていたが、フィリップスが撮らせた写真でしか確認することができない[24]。このセッションは伝説的な『ミリオン・ダラー・カルテット』と呼ばれるようになった。年末の『ウォール・ストリート・ジャーナル』一面で、プレスリー関連商品が2千2百万ドルを売り上げ、レコード売り上げがトップであることを報じられた[25]。また『ビルボード』誌で100位以内にランクインした曲数が史上最高となった[26]。音楽業界最大手の1つであるRCAでの最初の1年間、RCAのレコード売り上げの半数がプレスリーのレコードであった[27]

エド・サリヴァン・ショー

当時のアメリカの国民的バラエティー番組『エド・サリヴァン・ショー』には、1956年9月と10月、1957年1月と短期間に3回出演した[28]。なお、広い視聴者層を持つ国民的番組への出演を意識して、ジャケットを着用し出演した上に、当初保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が、意図的にプレスリーの上半身だけを放送したと伝えられている。

そのようなやり取りがあったものの、司会者のエド・サリヴァンが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことから、プレスリーへの批判は少なくなった上に、アメリカ全土へのプロモーションに大きく役立ったと言われている。

軍歴

陸軍に勤務していた頃のプレスリー

1958年1月20日に、プレスリーはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカは徴兵制を施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間である。プレスリーは特例措置を受けることなく、他と変わらぬ普通の一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で勤務し、1960年3月5日に満期除隊した[29]

徴兵命令が来た際、プレスリーは「闇に響く声」を撮影中で、徴兵を少し延期したことでも話題になった。徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝えた。翌日、プレスリーは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行った。

1958年8月11日、戦車兵としての専門教育を受けていたプレスリーは、すでに体調を崩していた母グラディスが緊急入院したとの知らせを受けた。上官はプレスリーからの外出申請をいったんは却下したが、8月12日の外出が許可された。グラディスは8月14日に亡くなり、翌15日に葬儀が営まれた。再び帰営する際、プレスリーはグラディスの部屋を生前の状態に保つよう言い残している。

プレスリーは西ドイツに駐留する第32機甲連隊に配属され、第1中戦車大隊の本部管理隊で勤務した。同地では松濤舘空手を学び、また軍曹まで昇進した。空手8段と言われることがあるが、実際には空手ではなく、除隊後にトレーニングした韓国人のカン・リー道場での最終段位であり、空手道とは関係がない。公開されている免状には韓国国旗とアメリカ国旗があしらわれている。また在籍中、病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断された。その際、医師はプレスリーの声が変調するのを恐れて、扁桃腺の切除手術は行わなかったが、回復し健康を取り戻した。

1960年3月2日、プレスリーは帰国の途に就いた。途中スコットランドを経由しているが、これが彼にとって唯一のイギリス滞在となった。プレスリーは3月3日の朝に帰国して大勢のファンに迎えられ、5日に名誉除隊となった。

映画出演

『監獄ロック』(1957年)
『G.Iブルース』(1960年)

プレスリーの映画は駄作・凡作が多いことで知られている。ただし「ブルー・ハワイ」「ビバ・ラスベガス」など、楽曲は優れている。駄作が多い理由としては、悪徳マネージャーのトム・パーカー大佐が、一気に10本ものハリウッド映画を契約してしまうなどの行動を取ったことなどが大きい。歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社数社から出演の依頼がプレスリーのもとに届いた。プレスリーは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がプレスリーを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給「Rino Brothers」を選んだ。プレスリーはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも「Love Me Tender」に変更されて公開された。

陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたが、いずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊するとパーカー大佐は配給会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、「G.I. Blues」、「Blue Hawaii」、「Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)」等、話題にはなったが、プレスリーの映画は全体的に評価が低い。評価されたのは「オン・ステージ」「オン・ツアー」など、コンサートをドキュメンタリー的に記録したものだけである。

結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中で、プレスリーが望んだ(主題歌以外の)歌のない映画は、1969年公開の「Charro!(殺し屋の烙印)」のみであった。この映画が製作された頃のプレスリーは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期ではあった(1968年のカムバックを経て、残った契約の消化を急いでいた)が、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影された。しかし、プレスリーの主演映画に対する世間の注目度が低かったこと、脚本の出来もイマイチだったことなどが原因で映画の興行成績は振るわなかった。

そういう状況の中、ミュージカル映画の枠を超えていなかったこと、台本の出来の悪さ[注釈 1]、また、プレスリーが力を入れて撮影したシーンがカットされたことなど、プレスリーの仕事への不満は募っていき、それが歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになった。

歌手活動の本格再開後も、1970年8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画Elvis: That’s the Way It Isエルヴィス・オン・ステージ)」や1972年4月のコンサート・ツアーの模様を収めたドキュメンタリー映画「ELVIS On Tour(エルヴィス・オン・ツアー)」が製作され、好評だった[30]。それ以降は映画の公開はなかったが、プレスリーの死後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成したライフ・ストーリー的映画「This Is ELVIS」が公開された。これらを合わせると、プレスリーが主演した映画は計34本となる。

1974年8月19日に、ラスベガス公演中のプレスリーの楽屋をバーブラ・ストライザンドが訪れた。バーブラは自らが主演する映画「A Star Is Born(スター誕生)」での共演をプレスリーに依頼し、プレスリー自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。

1970年代半ば、プレスリー自身が起案し出演する空手家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはなかった。理由の一つとして、プレスリーの体調が悪くなることが多く空手を続けられる状況ではなくなり、空手自体をやめてしまったことが挙げられる。ちなみに、空手の後の太り始めた頃からの趣味はラケットボールで、医師からの勧めで始めた。プレスリーは自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てた。亡くなる1977年8月16日の早朝も友人たちとプレーし、汗を流した。

ビートルズとの会見

プレスリーとビートルズは直接的な接点はなかったが、両者は1965年8月27日、ロサンゼルスのプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たしたことがロック史に残る出来事として語られている。ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインとパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目だったが、どこからか漏れてしまい、案の定自宅周辺には野次馬が集まった。

この会見はビートルズのメンバー達や関係者達の証言の食い違いがあり、様々な諸説がある。通説ではメンバーのジョン・レノンポール・マッカートニージョージ・ハリスンリンゴ・スターは平静を装いながらも、心を躍らせて招かれた部屋に入った。そこでプレスリーはテレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた。「本物のエルヴィスだ」と感激した4人は呆然としてしまった。気まずい沈黙とぎこちない会話の後、プレスリーが「一晩中僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけた後、即興演奏が始まった。プレスリーはベースを演奏し、レノンとハリスンはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。スターはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤードサッカーを楽しんでいたという。

ビートルズの友人でもある記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンがプレスリー宅のラウンジに入った時、テーブルランプの「リンドン・B・ジョンソン大統領と共に」というメッセージが刻まれたワゴンの模型を見つけた。その瞬間レノンは大統領を侮辱する態度をとり、プレスリーは困って苦笑いしていたという。プレスリーの妻だったプリシラによれば「ビートルズが入ってきたとき、エルヴィスはソファでリラックスしながらテレビを見ていました。両者とも最初は多少の沈黙とぎこちない会話の後、エルヴィスがベースを取り出してチャーリー・リッチの曲を弾き始めました。突然、ビートルズとエルヴィスのジャムセッションが始まりました」と語っている。

ビートルズの広報担当者でもあるトニー・バロウによると「プレスリーとビートルズは奇妙な沈黙が多く、いくつかぎこちない会話をした。最初に口を開いたのはジョンで、最近はなぜ映画でソフトなバラードばかりを歌ってるの?ロックンロールはどうしたのと質問していた。会話は上手くいかなかったが、プレスリーが楽器を用意し、素晴らしいセッションが始まった。彼等が演奏した全ての曲は覚えてないが、その内の1つはI Feel Fineだったことは覚えている。リンゴは木製家具を叩いてバックビートを鳴らしていた。それは素晴らしいセッションだった」と語っている。

プレスリーが「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言ったのに対してレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持ってないけどね」と発言したことからその場が凍りついたという。これはレノンの過激なジョークだったとも言われている。この会見は成功したとは言えないものだったが、ビートルズは忘れられない夜だったと語っている。プレスリーのロードマネジャーであるジョー・エスポジートによれば、「プレスリーは面会の後もビートルズに敬意を払っていた」と語っている。レノンはプレスリーの取り巻きに「エルヴィスがいなければ今の自分はいない」と伝えるよう頼んだという。

後にプレスリーはマッカートニーやハリスンの曲をカバーしているが、レノンの曲は取り上げていない。(ただしビートルズもプレスリーのカバーを正式には残していない)しかしプレスリーの側近であるジェリーシリングによると、プレスリーはレノンがメインのビートルズ初期の曲もよく聞いていた。プレスリーはア・ハード・デイズ・ナイトを特に気に入っていたという。しかし、ビートルズのドラッグソングは好きではなかったと側近は語っている。プレスリーはビートルズとの会見の後に、何度かインタビューやライブなどで、ビートルズを賞賛している。1969年にプレスリーは英国人記者に「彼らはとても面白くて、とても実験的だ。特に彼らが I Saw Her Standing There 辺りを歌っていたときが好きでした」と語った。ライブでも「ビートルズやドアーズなど、新しいバンドが本当に好きだ」と語っている。

しかし1970年に、反米精神に満ちたヒッピーのドラッグカルチャーの問題などで、混沌としているアメリカを危惧したプレスリーは、ニクソン大統領にアメリカを救うのに協力したいと手紙を出した。ヒッピーに支持され、大きな影響を与えていたビートルズを危険視した。LSDなどのビートルズのドラッグの音楽や過激なドラッグの発言、反アメリカ的な発言や共産主義的な思想など、若者に悪影響を及ぼしているとプレスリーは懸念していた。ビートルズの中でも特にジョンレノンの過激な発言と、抗議パフォーマンスがアメリカに悪影響で要注意人物と考えていたという。プレスリーはビートルズを一時期マークしていた。

しかしプレスリーは麻薬取締局のバッジを取得した後、ほとぼりも冷めていったのか、ニクソンとの関係も次第に無くなっていき、ビートルズの曲をコンサートで歌ったりもしている。プレスリーは1970年代にいくつかビートルズの曲をカバーしている。1973年の世界同時生中継で視聴者数15億人ともいわれている「アロハ・フロム・ハワイ」のコンサートでもビートルズの曲を歌っている。

この様にプレスリーのビートルズに対する嫌悪感は個人的なものでは無く、彼等への好意やリスペクトがあったのも事実だが、アメリカの愛国者としてビートルズを悪影響とも見なしていた。社会的立場が違ったプレスリーとビートルズの関係性は非常に複雑と言える。

結婚と離婚

リサを抱くプリシラとエルヴィス(1968年)

1967年5月1日には、ラスベガスのアラジン・ホテルでプリシラ・アン・ボーリュー結婚。プリシラはプレスリーの駐西独アメリカ軍での所属部隊長の継子であった。プレスリーは未成年であったプリシラを自分の父親とその妻の家に同居させ、有名なカトリック女子高に通わせて、きちんと卒業させるということをプリシラの母親と継父に約束してプリシラをメンフィスで暮らせるようにした。しかし、程なく2人はグレイスランドで一緒に暮らすようになっていく。8年後に結婚し、1968年2月1日には娘リサ・マリー・プレスリーが生まれる。

その4年後、結婚前から続いているプレスリーの生活習慣(昼と夜が逆転した生活)、メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)といつも一緒の生活、さらに年間何ヶ月にも及ぶコンサートツアーによる別居生活などのさまざまな理由から、プリシラは空手教師のもとに走り、2人の結婚生活は破綻してしまう。グレイスランドを出たプリシラはリサ・マリーを引き取り、ロサンゼルスに住居を移す。1973年10月9日に正式離婚。

離婚後もプレスリーとプリシラは友人関係にあり、以前よりも密に連絡を取り合うようになったという。プレスリーがツアーでロサンゼルスにいるときは、プリシラの家を訪れたり、なにか事あるごとにプリシラをグレイスランドに呼び寄せたりして精神的にプリシラを頼りにしていた。二人は、リサ・マリーがまだ幼かったこともあって、2人が離婚したことでリサが不幸にならないようにと願っていた。リサとプレスリーは頻繁に会っていたようだ。プレスリーが死んだその日もリサはグレイスランドにいた。

1960年代、70年代の音楽活動

プレスリーの音楽活動は62年の「好きにならずにいられない」までは好調を保っていたが、63年から68年ごろまでは絶不調と言ってよい状態だった。量産された映画とビートルズの登場に押された影響は否定できず、プレスリー自身もそれを自覚していた。不調の時代では65年の「クライング・イン・ザ・チャペル」(オリオールズの曲をカバー)が彼らしい佳作だった。68年のTVライブで復活したエルヴィスは69年に「サスピシャス・マインズ」[31]、「イン・ザ・ゲットー」を発売し、カムバックした。1969年から過密スケジュールでキャリアを再開。しかし、それはプレスリーを完全なワーカホリック状態へと追い込むものであった。1969年以降行ったライヴは1000回以上であり、平均すると1年におよそ125回のペースだった。

1969年よりネバダ州ラスベガスを中心にショーを行うようになっていた。プレスリーのコンサートは時代を経て、大規模なものになっていった。瞬間最高視聴率約72%を記録した1968年NBC-TVスペシャル以後、翌年にラスベガスのステージで歌手復帰してからは、ロックンロール以外にもレパートリーの幅を拡げ、ゴスペルやスタンダード・ナンバー等を取り入れた。バックもコーラス・グループやピアノ等が新たに加わり、オーケストラまで揃えた多人数の団体に膨れ上がった。なお派手な衣装は、リベラーチェからの影響と言われている。この時期のステージでは、トニー・ジョー・ホワイト、ニール・ダイアモンド、BJトーマスらの曲をカバーしている。日本では、『エルヴィス・オン・ツアー』は『リスボン特急』と共に上映された。 1972年には「バーニング・ラヴ」が、ビルボード2位まで上昇する大ヒットとなっている[32]。1970年代にエルヴィスは他に、「アメリカの祈り」「ロックンロール魂」などを発売した。

また、ラスベガスのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れた。コンサート活動再開後、最後にコンサートを行った1977年6月26日インディアナポリス公演までチケットは売り切れ状態が続いた。1977年8月17日から始まる予定だったツアーも最終日の8月27日のメンフィス公演まで売り切れ、翌28日に同地で追加公演を行う予定だった。

ニクソンとの面会

リチャード・ニクソン 大統領とエルヴィス・プレスリー(1970年)

1960年代半ばからアメリカは非常に混沌とした時代になった。ヒッピーの過激な反戦運動の中で、フリーセックス、栄養失調、病気、LSDなどの薬物中毒の問題などが浮上し、犯罪と暴力が急増した。

プレスリーはドラッグが蔓延るヒッピー文化の暴動と、過激なカウンターカルチャーによるアメリカの未来を危惧していたという。1970年12月21日には、アメリカン航空の民間機でワシントンD.C.に出向き(普段は自家用機しか乗らない)、シークレット・サービスに手紙を手渡した。一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。

「私はエルヴィス・プレスリーです。あなたを尊敬しています。私は3週間前にパームスプリングスでアグニュー副大統領と話し、我が国に対する懸念を表明しました。麻薬文化、ヒッピー、SDS、ブラックパンサーなど。私は彼等にとって敵では無く彼らの言う「体制」ではなく、私はアメリカを愛する者です。私はこの国を助けるためにできるだけの手伝いをさせていただきたい。私には国を助けること以外に何の関心も動機もありません。ですから私は役職を与えられたくないのです。もし私が連邦捜査官になったら、もっと良いことができます。あらゆる年齢層の人々とのコミュニケーションを通じて、私なりの方法でそれを手助けするつもりです。何よりも私はエンターテイナーです。必要なのは連邦資格だけです。」という手紙をニクソンに送った。

ホワイトハウス内は大騒ぎとなり、その40分後補佐官から「大統領が会いたい」と電話があった。ホテルに到着したデル・ソニー・ウェストが合流し3人でホワイトハウスへ行き、リチャード・ニクソン大統領に会った。ツーショット写真はその際撮影されたものである。プレスリーはFBI本部のプライベートツアーを許可された。若者の凄まじい反米精神と、不健全なヒッピーカルチャーを深刻な問題として考えていたプレスリーは、ビートルズ、スマザーズ・ブラザーズ、ジェーン・フォンダなど、彼等の公の場での過激な発言と活動を危険視していた。プレスリーは彼等を厳しく取り締まるべきと考えていたという。

「連邦麻薬取締局」のバッジを望んでいたプレスリーは「自分はドラッグ・カルチャーと、共産主義洗脳について研究してきた」[33]とニクソンに語っている。保守派の政治家として、麻薬撲滅に熱心であったニクソン大統領に対して、「ロックが麻薬使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」といい、麻薬取締官の資格を与えられた。翌週、プレスリーはそのバッジをみんなに見せびらかせて回った。なお、プレスリーは警察官等のバッジ・コレクションをしており、大変な収集家であった。

プレスリーは愛国心が強かったが、自分の「政治的見解」は自分の中に留めるとしており、政治について公に意見を言うことはしなかった。ニクソンとのドラッグカルチャー問題も、自分は芸能人ということをあらかじめ念押し、必要以上に関与することはしなかった。1972年の記者会見で「政治的なキャリアを追求することを考えたことはありますか?」という問いにプレスリーは「 いいえ、私にはその願望はありません」と答えている。記者から「兵役についてた頃の話もありましたが、ベトナム戦争の反対運動者についてあなたの意見はどうですか?今日徴兵されることは拒否しますか?」という問いに、プレスリーは「それについての自分の意見は自分の中に留めておくつもりです。私は芸能人だしね」と答え、記者は「他の芸能人も貴方と同じように秘密にするべきですか?」と質問するとプレスリーは「いいえ」と答えている。

また、プレスリーは人種差別に強く反対的で、1950年代に白人社会から凄まじい批判を受けても、黒人アーティスト達の影響やリスペクトを何度も公言しているが、一方で公民権運動には参加しなかった。人種差別やベトナム戦争を反対していた「キング牧師」を、プレスリーは熱烈に支持していたが、それを公に言うこともなかった。(キング牧師が暗殺されたとき、プレスリーは泣き崩れたという。)この様にプレスリーは、基本的にエンターテイメント以外で、自分を主張することはしないスタイルだった。

トム・パーカー大佐

パーカー大佐とともに(1969年)

トム・パーカーは悪徳マネージャーとして有名だった。パーカーは、エルヴィスとリーバー&ストーラーが親しいことが、自分がエルヴィスを支配する上でマイナスだと考えた。パーカーはエルヴィスと、リーバー&ストーラーの仲を引き裂く工作を行い、これに成功している。プレスリーは世界的なスーパースターとなったが、終生アメリカ、カナダ以外でコンサートを行っていない。海外での公演ができなかった理由は、移民であるパーカー大佐がアメリカの永住権を所持しておらず、カナダを例外としてアメリカ国外へいったん出国すると再入国を許されない事態を恐れた為だったと言われている。ちなみに、パーカー大佐が出身国に残してきた家族が、大佐がプレスリーに付き添う姿をテレビで見て仰天したという逸話が残されている。

これに対して、パーカー大佐は世界の公演希望に応えるため、衛星中継という方法で、生のプレスリーを世界へ送った。来日公演の要請に対しては、日本ゴールデンタイムに衛星生中継で視聴してもらえるよう、1973年1月14日に、ハワイ時間深夜1時からコンサート『アロハ・フロム・ハワイ』を開催する形で応えた。これは日本のゴールデン・タイム(午後7時)にあわせたものである。放送は約2時間続いた。

このコンサートはプレスリーの愛唱歌でもあった「アイル・リメンバー・ユー」の作者、クイ・リーの遺族らによって創設された“クイ・リー癌基金”のためのチャリティー・コンサートとして開催された為収益は全て、クイ・リー癌基金へ寄付された。この公演のチケットには値段が付いておらず、客が献金したい分だけ払えば、購入することが出来た。6000席の会場で7万5000ドル集まったので、1人あたり12ドル50セント支払った計算になる。

アメリカでは公開中だった『エルビス・オン・ツアー』と競合することを回避するために、4月4日に放送された。新たにハワイのビーチや挿入歌がインサートされた、生放送とは別の編集版であった。既にこのコンサートのライヴアルバムが発売されていたにもかかわらず、この放送を視聴した世帯数は、人類初の月面着陸の映像を視聴した世帯数より多かった[34]

「プレスリーの離婚の財産分与の資金捻出のため」という名目でパーカー大佐はプレスリーの楽曲の権利をRCAへ売り渡した。これは将来的に見ても大損な取引だったが、パーカー大佐自身がギャンブルで大損を出していたため、手っ取り早く大金を得るためにプレスリーに伝えないで独断で売った。離婚に必要な資金は175万ドルでエルヴィスならすぐに回収できるであろう金額だった。プレスリーがお金がなくなっていったのはこの権利で手に入る印税を受け取れなかったことが関係している。プレスリー関係者からは「悪名高き73年の取引」といわれている。

この様な理由以外にも、プレスリーはパーカー大佐に対する不満をメンバーたちに多く漏らしていた。しかし、プレスリーは生涯パーカー大佐をクビにすることはなかった。ネルソン・ジョージは、「マネージャーのトム・パーカー大佐がプレスリーをどんどん安物のクズにおとしめていった」と評している[35]

死と埋葬

プレスリーの墓

1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅、グレイスランドで没した。ガールフレンドのジンジャー・アルデンによって寝室のバスルームの床に倒れているところを発見され、バプテスト記念病院へ搬送されたが、医師は午後3時30分、プレスリーの死亡を確認した。42歳没。検視後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された[注釈 2]

晩年、プレスリーはストレスからくる「過食症」に陥ったことが原因で体重が激増したことに加え、1975年頃からは主治医だったジョージ・ニコポウラスから処方された睡眠薬などを「誤った使い方」で服用していた。「処方ドラッグをやっていた」とグレン・D・ハーディンなどのメンバー、さらにデル・ソニー・ウェストなどのメンフィス・マフィアのメンバーたちも語っている。

グレンは詳しいことは死ぬまで語るつもりはないといっているが、ソニー・ウェストは暴露本を書いて中傷したとされた。このことについてソニーは「まだ存命中だったエルヴィスを救うためだった」と述べた。違法なドラッグは一切使用していないが、この処方ドラッグの影響で癇癪持ちになり、体調も維持できなくなってしまった。 イギリスのテレビ局、チャンネル4はプレスリーのDNAに、肥満や心臓疾患を引き起こすものが発見されたと報道した[36]

当初はメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件後に、母親と共にグレイスランドに再埋葬された。グレイスランドには、プレスリーの様々な遺品やピンクや緑に塗られたキャデラック、愛娘の名前をつけた自家用機、コンベア880型「リサ・マリー号」などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れている。スコティ・ムーアは「エルヴィスの葬儀は見世物ショーになるだろう」と感じ、式に出席しなかった。

死後

プレスリーの急死後、その肖像権は非常に危うい位置にあった。プレスリーはステージ以外の事は人任せで、肖像権は一応管理されていたが杜撰だったため、金儲けの道具とされ、プレスリーのイメージを損なうものであっても簡単に商品化できた。

存命中にはプレスリーは多くの「名義貸し」のつもりで契約書にサインしていたが、相手は「エルヴィスが利益になる」と考え、膨大な予算をプレスリーに用意させようとした(ソニー・ウェストの暴露テープに電話の内容が記録されている)。

死去後まもなくして遺族らが膨大なプレスリーの物的財産を管理する組織を結成、肖像権も管理しようと訴訟を起こした(当時、亡くなった人々の肖像権の取り扱いは帰属等がはっきりしていなかった)。遺族らは勝訴し、肖像権を手に入れ、以後今日までしっかりと管理されている。

肖像権が管理できるようになって、「エルヴィス・プレスリー」という名を使い現在まで様々なプロジェクトを世界に向かって発信してきた。プレスリーのキャリアはサン・レコードからデビューした1954年から死去する1977年である。本業の歌の部門では、数多くの未発表テイクが発掘されている。

未発表映像も発掘され、1968年のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版がリリースされ好評となった。その他、側近や友人、家族らが語るプレスリーの人物像に焦点をあてた物や、プレスリーのゴスペルに対する思いを映像化した物もある。

エルヴィスの物まねタレント

それ以外にもプレスリーをモチーフにした映画の製作やプレスリーの曲が数多くの映画の挿入歌に使用される事も多い。プレスリーに因んだセリフも数多くの映画の中で聞くことが出来る。ブロードウェイのミュージカルにも取り上げられる等、そのような話題はとどまる事を知らない。プレスリーの記録であるナンバー1ヒット曲数18曲が、2019年マライア・キャリーの19曲によって更新された。

死後、ロニー・マクドウェルは「キング・イズ・ゴーン」を発表した。あまりにエルヴィスに似ていることと、歌のうまさはおおいに話題となった。プレスリーの物まね、または成りきる(演じる)事を生業とする人々が世界に存在し、その数は8万5000人と言われている[34]。また、エルヴィスを尊敬するアーティストも多く、そのようなアーティスト達が一堂に会したトリビュート・コンサートが実現した。

更に1997年には新たなる試みとして、プレスリーのコンサート映像を使用し、それにあわせて当時のバンド・メンバーが演奏するエルヴィス・ザ・コンサート(現:エルヴィス・プレスリー・イン・コンサート)のメンフィス公演が行われ、以後全米各地のほか、ほぼ年に1回のペースでアメリカ以外の地域でツアーを行っている。娘はマイケル・ジャクソンと結婚したが、後に離婚している。

彼の死後、プレスリーの生存説、目撃情報などの滑稽な陰謀論オカルト話が「ウィークリー・ワールド・ニューズ」「東京スポーツ」などを中心に相次いで報告された。年をとったプレスリーを見たという証言がある一方、若い頃そのままのプレスリーを見た、人面魚とプレスリーが泳いでいるのを見た、という証言がイエロー・ペイパーを中心に報道された。プレスリーが生きているという確実な証拠には300万ドル(約3億4000万)が支払われるが、その日は来るのは難しい。

フォロワー

グレイスランド(Graceland)

エルヴィスは多くの国の若者に、ロックンロールという新しい音楽への強い関心を与えた存在だった。ジョン・レノンボブ・ディランポール・マッカートニーボブ・シーガーフレディ・マーキュリールー・リード[37]ロバート・プラントブルース・スプリングスティーン、テリー・スタッフォード、クリフ・リチャードらをはじめとする多くのアーティストが大きな影響を受けた。

ジョン・レノンとエリック・カルメンは、ヴォーカル・スタイルにおいても影響を受けている。ジョン・シュナイダー、ZZトップ、チープ・トリック、らはエルヴィスの曲をカバーした。ロバート・ゴードン、タフ・ダーツ、ストレイ・キャッツ、ブラスターズらもエルヴィスの影響を受けていた。

バンド・メンバー

  • スコティ・ムーア — リードギター、リズムギター、バックボーカル(1954–59、1960–69、2016年に死亡)
  • ビル・ブラック — コントラバス、ベースギター、バックボーカル(1954–58; 1965年に死亡)
  • DJフォンタナ — ドラム、バックボーカル(1955–59、1960–69、2018年に死亡)
  • ゴードン・ストーカー — バックボーカル、ピアノ、オルガン、アコーディオン、パーカッション(1956–59、1960–68、1969–71、2013年に死亡)
  • ニール・マシューズ、Jr. —バックボーカル、ギター、ベースギター、コントラバス(1956–59、1960–68、1969–71; 2000年に死亡)
  • ホイト・ホーキンス —バックボーカル、ピアノ、オルガン、パーカッション(1956–59、1960–68、1969–71、1980年に死亡)

ヒュー・ジャレット — バックボーカル(1956–58; 2008年に死亡)

  • レイ・ウォーカー — バックボーカル(1958–59、1960–68、1969–71)

ボブ・ムーア—コントラバス、ベースギター(1958–59、1960–68; 2021年に死亡)

  • ダドリー・ブルックス — ピアノ、チェレスタ(1957–59、1960–63; 1989年に死亡)
  • タイニー・ティンブレル — リズムとリードギター、マンドリン(1958–59、1963–68; 1992年に死亡)
  • ジョーダネアーズ - 男性コーラス・グループ
  • スウィート・インスピレーションズ - 女性・ソウル・コーラス・グループ(ツアーなどで共演)

家族

衣装と食生活

1970年代の、金やダイヤモンドやルビーなどを施したジャンプスーツは、25kg以上にもなっていた。これは敬愛していたゲイのピアニストであるリベラーチェからの影響を受けたものだった。ただし、プレスリーは宝石類にはあまり興味がなく、ステージ上で華やかに見えるものなら安いイミテーションでも構わないという考えだった。

彼は煙草もやらなかった。たまに葉巻を吸う程度である。「オン・ステージ」で観客から酒を渡された時も、口を付けるだけでほとんど飲んでいない。ステージ上で飲んでいるものはゲータレードである。

コーヒー炭酸飲料、「ピーナッツバターバナナベーコンサンドイッチ」が大好きで、毎日のように食べていた。今ではこのサンドイッチは「エルヴィスサンド」と呼ばれている。ただし、このサンドイッチは食べる前に多量のバターを溶かしたフライパンで揚げ焼きにしたもので、当然ながら高カロリーなため、プレスリーが30代以降体調を崩し、肥満化していった一因になったのではないかという指摘もある。

影響

日本では湯川れい子小林克也平尾昌晃山下敬二郎ミッキー・カーチス本郷直樹尾藤イサオささきいさお、鹿内孝、藤木孝、西郷輝彦坂本九西田敏行大瀧詠一等がプレスリー・ファンとして知られている。

アメリカのティーンエイジャーの一部は、プレスリーのダックテールと呼ばれる横髪を後ろへなで付けるヘアスタイルを真似し始めた。また、黒いズボンや緩い開襟シャツといったプレスリーのスタイルは、ファッションの新たな流行を生み出した。プレスリーや、ジェームズ・ディーンの影響は、西側世界における3ティーンエイジャー世代の存在を印象付けた。エルヴィス・プレスリーを慕うミュージシャンに、ドイツオペラ歌手ペーター・ホフマンらがいる。

1977年ジミー・カーター大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。彼の音楽とその個性は白人のカントリー音楽と、黒人のリズム・アンド・ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。」と語った。ジェームズ・ブラウンは「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。

アメリカ内務省ゲイル・ノートン長官は2006年3月27日、プレスリーが約20年間を過ごした、テネシー州メンフィスの邸宅「グレイスランド」を国の国定史跡に認定した。認定の式典は一般公開で行われ、娘であるリサ・マリー・プレスリーも出席した。

交友関係

メンバー等

  • 70年代のプレスリーのバックバンドを務めたベースのジェリー・シェフはプレスリーから要請が来た時、最初は断るつもりで対面した。その理由はジェリーが、ブルース以外の音楽には興味がなかったからである。その場のセッションでエルヴィスがブルースをいじり始め、ジェリーはその歌い方に感銘を受け、バンドに参加する決心をしたという。しかし、ジェリーが本当に心を魅せられたのはプレスリーの温かい人柄であったという。雑用スタッフも決して邪険にせず、この曲は嫌いなどということも無かったという。プレスリーはジェリー・シェフにブルースのソロを振った際、ジェリーはブルース以外の曲も演ろうと思い(公演で何度もブルースは弾いてきたので)アドリブでケイジャンを弾いた。それ以降、メンバー紹介の際には「フェンダーベースのジェリー・シェフです。今夜は何を演ってくれるのでしょう?」とMCするようになった。
  • ピアノのグレン・ハーディンは、プレスリーがリハーサルしていない曲をソロで振ってくることがあったため、それ以来、プレスリーにソロを要求されると思われる曲を練習していたという。
  • プレスリー復帰後のショーでリズムギターを務めていたジョン・ウィルキンソン英語版は、元々は歌手であった。プレスリーは休憩時間などにジョンに歌ってもらい、リラックスしていたようである。1990年代に左半身不随になり、2度とギターは弾けなくなってしまった。
  • プレスリーの友人で警備担当であるケネディ警部補が同じく警官であった弟を亡くした時、プレスリーは葬儀の資金を全額負担し、バックコーラスであったJ.D.サムナー&スタンプス・カルテットにゴスペルを歌わせた。葬儀の際に野次馬で式が邪魔されるのを避けるため、プレスリーは警官の制服を着用し、他の参列した警官と共に式に出席した。

エピソード

  • 身長については諸説ある。1958年の軍隊の記録では6フィート(182)とされている。[39] これはを履いた状態での記録である。[40] 他に、彼が17歳の時の運転免許証の記録によると5フィート11インチ(180cm)とされている。 また、彼のコスチュームデザイナーは5フィート11.5インチ(181cm)であったと語っている。など様々な記録が残っているため、実際は靴を履いた状態で180cmから182cmであったと推測できる。
  • 髪は茶褐色であるが黒く染めていた。
  • 趣味はバッジ収集。
  • ジェームズ・ディーンの大ファンで、目標としていた。ディーンの代表作「理由なき反抗」の台詞を全て覚え、周りを驚かしたこともある。ちなみに、プレスリーの代表作「闇に響く声」は、ディーンのために書かれた作品であった。評論家たちはこの作品を、プレスリーの映画の中で最良の演技をしたと言った。
  • ホノルルのパール・ハーバーにある「アリゾナ記念館」は、プレスリーが1961年に行ったチャリティ・ショーによって建てられたものである。プレスリーによると「1日100万ドル使い続けても使い切れない」とのこと。友人には車や宝石を頻繁にプレゼントした。ただし、プレスリーはまるで日課のように多方面、数え切れないほどの多くの団体に寄付した。殆どが非公式や匿名で行われたものだった為、明確には把握出来ていない。
  • プレスリーは友達だと思った人間には尽くすタイプだった。反対に「エルヴィスのお金や贈り物を求めて近付いてくる人間には、その姿勢に気付き距離を置いていたようである」とバンド・メンバーは回想している。
  • アフリカ系アメリカ人に対する差別には反対であったが、全盛期の1950年代から1960年代にかけてアメリカ合衆国に広がったアフリカ系アメリカ人公民権運動には、関与しなかった。
元自家用機のコンベア880「リサ・マリー」
  • モハメド・アリと交流があった。二人は1973年に初めて会い、1977年まで交友が続いた。アリは、歌手ではサム・クックが一番好きで、2番目にエルヴィスを好きだったという。アリに金色のマントを送ったが、それを初めて着用して登場した試合で敗れたので、以後2度と着用することはなかったが、アリはそれを大事にした。アリは金色のマントをもらったので、お返しにプレスリーに金色のアリのサイン入りグローヴを送った。プレスリーもこれを大事にした。メンフィス・マフィアがプレスリーとファンの間に壁を作り、プレスリーをホテルの最上階に閉じ込めて、窓ガラスに銀紙を貼り、隔離していた。
  • 現在グレイスランドには元自家用機のコンベア880「リサ・マリー」(機体記号N880EP)が展示されており、機体内部を含めて公開されているが、世界でも数機しかないコンベア880の現存機の内の1つでもある。この機体は1975年デルタ航空(当時の機体記号はN8809E)から購入したもので、没後の1979年に登録抹消されている。
  • 「F1チームの元オーナーのクレイグ・ポロックがかなり古いハーレーダビッドソンを約60万円で購入したところ、すぐ故障したので修理に出しシートを開けたらシートの裏に“親愛なるジェームズ・ディーンへ、エルビス・プレスリー”と書かれており、プレスリーからジェームズ・ディーンにプレゼントされたものとわかった為オークションに出展したところ、およそ1億2千万円の値がついた」との出所不明の逸話が日本でのみ広まっているが、ジェームズ・ディーンが事故で他界したのが1955年であり、エルヴィスが本格デビューしたのが1956年であることを鑑みても、キャリア絶頂期で世を去った1955年頃のディーンが、デビュー前のエルヴィスと親交していたとは考えにくい。また、二人が一緒に写るポートレイトなども(フェイク画像を除き)存在しない。
  • 亡くなった際には、「我が国家の貴重な財産がもぎとられた」と、ジミー・カーター大統領が異例の追悼声明を発表している[41]

メンフィス

グレイスランドの前の通りはエルヴィス・プレスリー・ブールバード(大通り)という。世界中のプレスリーのファン、ファンクラブからの募金のみで運営しているセイント・パウロ・エルヴィス・プレスリー記念病院がある。

主な使用楽器

マーティンD-18
デビューから徴兵までコンサートで使い続けていたギター。RCAファースト・アルバムのジャケット写真(1955年フロリダ公演)など弦が切れた状態で演奏されていた。また、カントリー・ミュージシャンが使っていた革のギター・カバーを被せて使用した。ブリッジ・ピンを何度も紛失している。
1969年のステージ復帰後、長らくギブソン製を使っていたが、1977年のツアーで新品のD-18で演奏している。あまり弾きやすいギターではなかったようで、側近のレッド・ウェストとの電話で「新しいマーティンのギターが弾きにくい」と愚痴をこぼしている。
マーティン D-28
主にテレビ・ショウで使用された。ドーシー・ショウやミルトン・バール・ショウで使用。
ギブソン・J-200
映画「さまよう青春」、「闇に響く声」などで使用された。ボディが大容量なため、大音量が出せる。1968年のTV番組「エルヴィス」ではシット・ダウン・ショウで使用。
ギブソン・J-200(特注品)
1960年にプレスリーが特注で作ったギターで、プレスリーがデザインした人工衛星が描かれたピックガードを装着していた。また、指板にはELVIS PRESLEYとインレイが施されている。1969年の公演再開から1971年までステージで使い続けた。「エルビス・オン・ステージ」でも確認できる。ストロークが激しいため、ギター上部(ピックガードの反対側)はピックで塗装面がかなり削れてしまっている。
ギブソン・ダヴ(特注品)
1971年からJ-200に代わって使用したギター。J-200と違い、スクエア・ショルダーとなっていて、角ばったデザインが特徴。DOVEという名称の由来のピックガードの鳩のプリントは無い、オール・ブラックのモデル。ピックガードは白とのプライ加工されており、縁取りが見えるようになっている。また、指板には筆記体でElvis Presleyとインレイが施されている。さらにアメリカ・ケンポー・カラテ協会のステッカーを貼っていた。
ギブソン・ハミングバード
75年から76年にかけて使用していたギター。ピックガードにハチドリのプリントが施されている。ダヴと同じくスクエア・ショルダー・タイプ。
ギブソン・EBS-1250
6弦ベースと6弦ギターのダブルネックのモデル。通常のEBS-1250はドットインレイだが本モデルはレスポールやSGのような台形のインレイを採用した。アコギの様にヘッドにストラップを付けて映画「カリフォルニア万才」で使用。
ハグストロム・ヴァイキングII
テレビ・ショウの「エルヴィス」で使用したギターでワイン・レッドのモデル。スウェーデン製。非常に硬質で特徴的な音色。オープニング、スタンド・アップ・ショウなどで使用されたが、プレスリーの所有物ではなく、テレビ出演に当たって借り受けたもの。
グレッチ 6122 カントリー・ジェントルマン
69年から70年まで公演で使用したギター。チェット・アトキンスのシグネイチャー・モデルである。ホロウボディだがFホールはペイント。ドキュメンタリー映画「エルビス・オン・ステージ」のMGMリハーサル撮影の合い間にも使用している。同映画に収録されたインターナショナル・ホテルでの公演でも使用。公演ではイスに座り、このギターを弾きながら歌った。
フェンダー・プレシジョンベース(オリジナル・プレシジョン・ベース)
1957年5月3日、映画「監獄ロック」の劇中曲「ベイビー・アイ・ドント・ケア」を収録中に使用。ベーシストのビル・ブラックはウッドベース奏者であり、与えられたエレクトリック・ベースを上手く扱うことができず、怒ってスタジオを出て行ってしまった。そこでプレスリーが投げ出されたこのプレシジョン・ベースを弾いた。1957年にリニューアルされる前の仕様。

記録

プレスリーの記録には限りがないが、代表的なものや、興味深いものを挙げる。

ギネス・ワールド・レコーズ編

  • 世界で最も成功したソロ・アーティスト
  • 全米No.1シングル18曲(歴代3位)/全英18曲(歴代1位)
  • 最多ゴールド、プラチナ、マルチ・プラチナレコード獲得数:140タイトル
  • 全米No.1アルバム9作/全英6作
  • 全米チャート入りレコード149作/全英98作
  • シングル発売133枚
  • 最も長期に渡ってNo.1アルバムをチャートに送り込んだアーティスト(1956〜2002年)初のNo.1アルバム「エルヴィス・プレスリー登場!(1956)」から「ELVIS(2002年)」まで。
  • 最多ヒットシングル記録(151曲)ビルボードtop100へのエントリー回数151回は最多。
  • 1日で最もレコードを売ったアーティスト(エルヴィス・プレスリー/死の翌日、1977年8月17日) 2,000万枚以上の売り上げ。プレスリーの死の衝撃が物語れる。
  • 世界に最もファンクラブが多いアーティスト(エルヴィス・プレスリー)世界で(死後にもかかわらず)625のファンクラブが現在活動中である。
  • 世界で最も訪問される墓(グレイスランド) エルヴィスの墓であるグレイスランドは、年間約70万人が訪れる墓。死後18年にあたる1995年には、歴代最多の753,965人が訪れた。アメリカの国定史跡。

統計、評論家などによる投票

ロックの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米1986年)
1986年、アメリカで始まったロックの殿堂は、ロック史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。プレスリーは第1回目で選ばれた。
UKミュージック・ホール・オブ・フェイム(エルヴィス・プレスリー/英2004年)
2004年、イギリスで始まった、UKミュージック・ホール・オブ・フェイム(音楽の殿堂)は、音楽史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。プレスリーは第1回目で選ばれた。2007年、この殿堂は資金不足のため、廃止された。
カントリーの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米1998年)
1998年、カントリー・ミュージック協会により、カントリーの殿堂入りを果たした。伝統的な同教会が認めたことは、プレスリーの音楽の真価を証明するものだった。9月23日、テネシー州ナッシュビルグランド・オール・オープリー・ハウスで授賞式が行なわれた。
ゴスペルの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米2001年)
2001年、ゴスペル・ミュージック協会により、ゴスペルの殿堂入りを果たした。11月27日に、テネシー州、フランクリンのピープルズ・チャーチで授賞式が行われた。ちなみにロックとカントリー、ゴスペルの3つの殿堂入りを果たしたのは、プレスリーとジョニー・キャッシュだけである。
世界の音楽を最も変えた曲(エルヴィス・プレスリー/That's All Right)
イギリスの雑誌『Q』によって発表。音楽のジャーナリスト達の投票により決定。プレスリーの音楽の始まりであり、ロックの原点とも言われる曲「ザッツ・オール・ライト」が、「音楽と世界を永遠に変えた革新的な100曲」の第1位に選ばれた。2位はビートルズの「I Wanna Hold Your Hand」。
死後、最も売り上げが多いアーティスト(エルヴィス・プレスリー)
経済誌「Forbes」により毎年(10月下旬)発表。死んだ著名人の1年度の売り上げを順位付けしたものである。2001年から発表が始まり、プレスリーは2005年まで5年連続1位に輝いた。2006年は、カート・コバーンの著作権が売却されたことにより2位になったが、翌2007年には4900万ドル(約56億円)で再び首位を奪回し、2008年度も5200万ドル(約51億円)で1位になった。毎年大体50億〜60億あたりの売り上げを誇っている。
イギリスで最もヒットしたアーティスト(エルヴィス・プレスリー)
「The Book Of British Hit Singles & Albums」が発表。プレスリーが「イギリスで1番売れたアーティスト・トップ100リスト」の第1位になった。1952年からのチャート・イン週間数の総計を基準としたものである。毎年発表される。上位にはクイーンクリフ・リチャードらがいる。

雑誌や一般による投票

ロック史上最高の服装(エルヴィス・プレスリー/白いジャンプ・スーツ)
約1万2千人の音楽ファンによって投票。「最高のロック・アウトフィットtop10」での投票で、プレスリーの「白いジャンプ・スーツ」が、ロック史上最高の服装として歴代第1位に選ばれた。2位は、カイリー・ミノーグの「ゴールドのホット・パンツ」。
最もサインに価値があるロック・ミュージシャン(エルヴィス・プレスリー)
カリフォルニア州のサイン専門誌「Autograph Magazine」により発表。最もサインに価値のあるロック・ミュージシャン第1位に、プレスリーが選ばれた。2位はビートルズのポール・マッカートニー

ディスコグラフィ:アルバム

公式リリース音源の数は800曲を超える。

Follow That Dreamレーベル

プレスリーがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在するが、プライベート録音を含め、すべての残されたプレスリーの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたのが、主演映画のタイトルから引用したFollow That Dreamレーベルである。

このレーベルのアルバムは限定生産され、世界中のファンクラブに優先的に流通させるので一般のCDショップ等に出回りにくい。1999年に第一弾 Barbank'681968年のNBC-TVスペシャルのリハーサルの模様を収録)がリリースされた。以後、定期的に貴重な音源が次々とリリースされている。わずかだが一つの曲のすべてのテイクを聴くことが出来たり、コンサートアルバムはプレスリーのコンサートを体験することが出来なかったファンにも追体験出来るような内容になっている。

オリジナルアルバム

発売年 アルバムタイトル 最高位 RIAA
US Country US UK
1956 エルヴィス・プレスリー登場!Elvis Presley 1 1 Gold
エルヴィスElvis 1 3 Gold
1957 エルヴィス・クリスマス・アルバムElvis' Christmas Album 1 2 3× Multi-Platinum
1960 エルヴィス・イズ・バックElvis Is Back! 2 1 Gold
心のふるさと(His Hand in Mine 7 13 3 Platinum
1961 歌の贈り物Something for Everybody 1 2 Gold
1962 ポット・ラックPot Luck 4 1
1967 ゴールデン・ヒムHow Great Thou Art 7 18 11 2× Multi-Platinum
1969 エルヴィス・イン・メンフィスFrom Elvis in Memphis 2 13 1 Gold
1970 バック・イン・メンフィス(Back in Memphis
1971 エルヴィス・カントリーElvis Country (I'm 10,000 Years Old) 6 12 6 Gold
ラヴ・レター・フロム・エルヴィス(Love Letters from Elvis 12 33 7
初めてのクリスマス(Elvis Sings the Wonderful World of Christmas 13 3× Multi-Platinum
1972 エルヴィス・ナウ(Elvis Now 45 43 12 Gold
至上の愛(He Touched Me 32 79 38 Platinum
1973 フール(Elvis 8 52 16
ロックン・ロール魂Raised on Rock/For Ol' Times Sake 50
1974 グッド・タイムス(Good Times 5 90 42
1975 約束の地Promised Land 1 47 21
エルヴィス・トゥデイ(Today 4 57 48
1976 メンフィスより愛をこめて(From Elvis Presley Boulevard, Memphis, Tennessee 1 41 29 Gold
1977 ムーディ・ブルーMoody Blue 1 3 3 2× Multi-Platinum

ライブ・アルバム

発売年 タイトル 最高位 RIAA
US Country US
1968 エルヴィスNBC TVスペシャル(Elvis NBC-TV Special) 8 プラチナ
1970 エルヴィス・オン・ステージVol.3(Elvis in Person at the International Hotel) ゴールド
エルヴィス・オン・ステージVol.2(On Stage: February 1970) 13 13 プラチナ
エルヴィス・オン・ステージVol.1(That's the Way It Is) 8 21 ゴールド
1972 エルヴィス・イン・ニューヨークElvis: As Recorded at Madison Square Garden 22 11 3× マルチ-プラチナ
1973 エルヴィス・イン・ハワイAloha from Hawaii: Via Satellite 1 1 5× マルチ-プラチナ
1974 ライヴ・イン・メンフィスElvis: As Recorded Live on Stage in Memphis 2 33 ゴールド
1977 エルヴィス・イン・コンサート′77(Elvis in Concert 1 5 3× マルチ-プラチナ
1997 アフタヌーン・イン・ザ・ガーデン(An Afternoon in the Garden)
1998 アロハ・フロム・ハワイ(Aloha From Hawaii - Via Satellite)
タイガーマン〜NBC・ライヴ 1968(Tiger Man)
メモリーズ〜'68カムバック・スペシャル(Memories: The '68 Comeback Special)
1999 エルヴィス・ザ・コンサート〜1999ワールド・ツアー(Concert 1999 World Tour)
2001 グレイテスト・ヒッツ・ライヴ(The Live Greatest Hits)
エルヴィス・ライヴ・イン・ラスベガス(Live In Las Vegas)
2007 VIVA LAS VEGAS グレイテスト・ラスヴェガス・パフォーマンス(Elvis: Viva Las Vegas) 54
2008 68カムバック・スペシャル・ボックス 40周年記念エディション(The Complete '68 Comeback Special: 40th Anniversary Edition)
2012 エルヴィス・イン・ニューヨーク 40周年記念エディション(Prince from Another Planet) 187

シングル・ディスコグラフィー

プレスリーが1977年に亡くなるまでの21年間に、146曲が100位以内に、112曲が40位以内に、72曲が20位以内に、38曲が10位以内にチャートインした。1962年4月21日から2週連続で1位を獲得した「グッド・ラック・チャーム」を最後にプレスリーは1位から遠ざかったが、1969年11月1日、「サスピシャス・マインド」が1位を獲得し、「プレスリーの復活」と言われた。1972年10月28日には「バーニング・ラヴ」が2位まで上り詰めたが、チャック・ベリーの「マイ・ディンガリング」(1972年10月21日から2週連続1位)に阻止された。

1970年代においてはプレスリーは一度も1位を取ることはなかったが、2002年にリメイクされた「ア・リトル・レス・カンヴァセーション」は世界24カ国でナンバー1を取得した。アメリカにおいて1位を獲得したシングルの数は18作〈計79週間〉で、ビートルズの20作〈計59週間〉、マライア・キャリーの19作〈計82週間〉に次ぐ歴代3位の記録となっている(Billboard誌に準拠)。

ロックン・ロール(1986年殿堂入り)、カントリー(1998年殿堂入り)、ゴスペル・ミュージック(2001年殿堂入り)の3部門のいずれも殿堂入りした初のアーティストとなった。また、今のところ楽曲においては3回(通算5回)グラミー賞を受賞しているが、3回ともロック部門ではなくゴスペル部門においての受賞であり、プレスリーは終生この事を誇りにした。

全米ナンバー1獲得曲

ナンバー1ヒットは全18曲、合計79週間である。曲数はビートルズマライア・キャリーに次ぐ歴代3位である。週間数に関してはマライア・キャリーに次ぐ歴代2位である。(en:List of Billboard Hot 100 chart achievements and milestones#Most cumulative weeks at number one

主なシングル

  • フール・サッチ・アズ・アイ(Now and Then There's) A Fool Such as I)1959年 全米2位、全英1位
  • アイ・ニード・ユア・ラヴ・トゥナイト、全米4位
  • 思い出の指輪
  • ワン・ナイト
  • 悲しき悪魔、1963年、全米3位
  • ラブ・ミー
  • アイ・ガット・スタング
  • ドント・クライ・ダディ
  • あの娘が君なら
  • リトル・シスター
  • 望みがかなった
  • マリーは恋人
  • 破れたハートを売り物に
  • アスク・ミー
  • 明日への願い
  • 好きにならずにいられないCan’t Help Falling in Love)1961年 全米2位、全英1位
  • 心の届かぬラヴ・レター(リターン・トゥ・センダー)(Return to Sender1962年 全米2位、全英1位
  • クライング・イン・ザ・チャペル、1965年、全米3位
  • イン・ザ・ゲットー(In the Ghetto)1969年 全米3位、全英1位
  • ワンダー・オブ・ユー[42]、1970年
  • バーニング・ラヴBurning Love)1972年 全米2位、全英7位
  • オールウェイズ・オン・マイ・マインドAlways on My Mind)1972年 全英9位
  • アメリカの祈り(アメリカン・トリロジー)、1973年、全米26位
  • ロックンロール魂

その他の楽曲

  • ブルー・ハワイ
  • ビバ・ラスベガス
  • GIブルース
  • サスピション

フィルモグラフィ

映画は駄作がほとんどである。ただし「オン・ステージ」「オン・ツアー」の2作のライブ映画だけは、内容が充実している。32本の映画出演作(ドキュメンタリーを除く)全てが主役。

プレスリーを扱った作品

プレスリー本人が描かれた作品

プレスリーに関連した作品

  • 映画『フォレスト・ガンプ/一期一会』 - 無名時代のプレスリーがガンプの家に泊まり、背骨の固定装置を足に着けたガンプの動きにヒントを得て独自のステージパフォーマンスを編み出すというくだりがある。また、劇中でガンプの母親が「子どもの見るものではない」と当時のプレスリーに対する親の考えが表されている。
  • 映画『ミステリー・トレイン』(ジム・ジャームッシュ) - プレスリーのゆかりの地としてメンフィスを訪れる若い日本人観光客のカップルのエピソードが含まれている。女の子のミツコはプレスリーに心酔している。プレスリーの亡霊が登場したり、ラジオからプレスリーの曲が流れたりもする。
  • 映画『プレスリーVSミイラ男Bubba Ho-Tep(2006年) - 主人公はブルース・キャンベルが演ずるプレスリー。プレスリーは現在も、人知れず南部のとある老人ホームで余生を送っており、1977年に亡くなったのは実はそっくりさんだったという設定。
  • ポール・サイモン - 1986年に発表されたアルバム『グレイスランド』、及びそのタイトル曲は、エルヴィスの家の影響を受けている。タイトル曲は、後にグラミー賞を獲得した。
  • TVシリーズ『フルハウス』 - 大のプレスリー・ファンであるジェシー・カツォポリス(Jesse Katsopolis)が主役。作品の随所にプレスリー関連のネタが登場する。1度だがラスベガスへ行ったときには「ラスベガス万才」と同じ空撮の映像にジョン・ステイモスが歌った「Viva Las Vegas」が流れる。また、まだ母体の中に居る段階の子供に生まれるまでずっとプレスリーの曲を聞かせようとしたり、子供部屋の装飾を全てプレスリーグッズにしようとするエピソードもあった(結果的には未遂に終わるが)。また初期はプレスリーを模した髪形をしていた。
  • TVシリーズ『俺がハマーだ!』- プレスリー似た者コンテストの優勝者が次々と撲殺される事件が起き、おとり捜査のために主人公ハマー刑事がコンテストに出場するエピソードがある。
  • ジャック・ウォマックの小説AmbientElvissey(ともに未訳)で描かれる近未来世界では、プレスリーの復活を信じるE教会(the Chirch of E)という宗教が登場する。Elvisseyでは、E教会の信者たちが、プレスリーのそっくりさんファッションに身を固めて、Elconという集会を開催するシーンがある。
  • 映画『トゥルー・ロマンスTrue Romance(1993年) - プレスリーのファンである主人公を励ます幻影として登場する。ヴァル・キルマーが演じた。
  • 映画『メン・イン・ブラック』 - トミー・リー・ジョーンズが車内でプレスリーの歌をかけるシーンでウィル・スミスが「エルヴィスは死んだんだぞ」と言うと「死んでないよ、故郷の星に帰ったのさ」と返すシーンがある。
  • 映画『トラブル IN ベガスElvis Has Left the Building(2004年) - エルヴィス・プレスリーのコスプレをした人物が次々に登場し、次々に死んでいく。
  • 映画『エルヴィス、我が心の歌』The Last Elvis(2012年) - プレスリーのトリビュートアーティストの物語。
  • 映画『スティーラーズPawn Shop Chronicles(2013年) - プレスリーのトリビュートアーティストが主要人物として登場する。
  • 映画『ボス・ベイビーThe Boss Baby(2017年) - プレスリーに扮した何十人もの男が登場する[43]
  • 『Blue Moon Over Memphis』 - 米国人劇作家Deborah Brevoortによる2001年の英語能作品[44]。エルビスの邸宅グレイスランドを訪れた熱烈な女性ファンの前にエルビスの霊が現れるという作品で、日本語を母語としない能の研究者を中心に結成されている「シアター能楽」により2000年代より米国で演じられている[45][46]。日本の能面師が制作したエルビスの面を使用[45]
  • 映画『リロ・アンド・スティッチLilo & Stitch(2003年) - 主人公リロがプレスリーのファンであり、劇中音楽にプレスリーの楽曲が使用され、スティッチが鬘とファッションでプレスリーに扮してギターを披露する場面がある。

日本語文献

※近年刊行の一部。
  • ピーター・グラルニック 『エルヴィス伝 復活後の軌跡 1958-1977』三井徹訳 みすず書房、2007年 大著
  • アルフレッド・ワートハイマー撮影・文 『エルヴィス・プレスリー 21歳の肖像』夏目大訳 青志社 2007年 大著の写真集
  • 『SCREEN特別編集 エルヴィス・プレスリーの伝説』 近代映画社 2005年
  • 『文藝別冊 エルヴィス・プレスリー』 <KAWADE夢ムック>河出書房新社 2003年
  • ボビー・アン・メイソン 『エルヴィス・プレスリー』外岡尚美訳<ペンギン評伝双書>岩波書店 2005年
  • 前田絢子『エルヴィス、最後のアメリカン・ヒーロー』角川選書 2007年

脚注

注釈

  1. ^ プレスリーは映画の台本を叩きつけ、「ふざけるな。 ボートバイクに車の選手、全部同じストーリーだ」と激怒し、撮影現場に行かなかったこともあった。
  2. ^ 当時ドーナツの食べ過ぎが原因だったというデマがあった。

出典

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  46. ^ 能を英語で上演――”Blue Moon Over Memphis” UCLAにて共催 早稲田大学、2019/03/22

関連項目

外部リンク