マーケット・ガーデン作戦

マーケット・ガーデン作戦

オランダに降下する連合軍の空挺隊員(1944年9月)
戦争第二次世界大戦西部戦線
年月日1944年9月17日 - 25日
場所オランダの旗 オランダ周辺
結果:ドイツの戦術的勝利。連合軍の作戦失敗
交戦勢力
イギリスの旗 イギリス
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カナダの旗 カナダ
ポーランドの旗 ポーランド
オランダの旗 オランダ人レジスタンス
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
指導者・指揮官
イギリスの旗 バーナード・モントゴメリー
アメリカ合衆国の旗 ルイス・H・ブレアトン
イギリスの旗 マイルズ・デンプシー
イギリスの旗 フレデリック・ブラウニング
イギリスの旗 ブライアン・ホロックス
スタニスラウ・ソサボフスキー
ナチス・ドイツの旗 ゲルト・フォン・ルントシュテット
ナチス・ドイツの旗 ヴァルター・モーデル
ナチス・ドイツの旗 クルト・シュトゥデント
ナチス・ドイツの旗 ヴィルヘルム・ビットリヒ
ナチス・ドイツの旗 グスタフ=アドルフ・フォン・ツァンゲン
戦力
空挺兵 41,628人[1] 100,000以上[2]
損害
死傷者8,716人~10,786人[3]
うち戦死者1,984人[4]
捕虜 6,414人[5]
死傷者10,000人[6]~13,000人[7][8]
うち戦死者1,800人[9]~3,800人[10]
西部戦線 (1944-45)
イギリスの飛行場におけるC-47の隊列

マーケット・ガーデン作戦(マーケット・ガーデンさくせん、Operation Market Garden)は、第二次世界大戦中の1944年9月に行われた連合国軍の作戦。連合軍が、ミューズ川ライン川ネーデルライン川及びそれらの川の運河に架かる橋に空挺部隊を降下させて確保させ、ドイツ本土進攻の進撃路にするといった、冒険的な作戦であった[11]。作戦を企画したイギリス陸軍バーナード・モントゴメリー元帥によればこの作戦は、部隊と戦車が疾風のようにオランダを席巻してドイツ本土になだれ込み、ナチス・ドイツを打倒して1944年中に戦争を終わらせるものであった[12]

連合軍の空挺部隊は様々なトラブルに見舞われながらも、勇敢さを発揮して目標の橋を確保したが、その空挺部隊が敷いた“絨毯”を進撃したイギリス軍機甲部隊が[13]、要所要所でドイツ軍の激しい抵抗にあって進撃が停滞した[14]。敵中最も深い攻略目標であったアーネム(アルンヘム)に降下したロイ・アーカート英語版少将率いるイギリス第1空挺師団英語版は、一時的に駐留していたドイツ軍精鋭部隊第9SS装甲師団第10SS装甲師団などの目と鼻の先に降下することとなったため、激しい反撃を受けて[15]、イギリス機甲部隊のアーネム到達まで持ちこたえることができず、9月27日にわずかに撤退できた部隊を除いてドイツ軍に降伏した[16]

作戦の失敗により、モントゴメリーの目論見通りのドイツ本土への疾風のような進攻は見送られ、結局、ドイツ本土への進攻はこの6か月後となってしまった。作戦目的を達することができなかったうえ、多大な損害を被った連合軍であったが、オランダの国土の大部分を解放し、ナチス・ドイツの圧政と搾取で飢餓で苦しんでいたオランダ国民を救うこととなった[17]

背景

ノルマンディー上陸作戦後の1944年8月、ファレーズ・ポケットなどでドイツ軍に大打撃を与えた連合軍は、それまでの停滞した戦線と異なり急速な進撃を開始した。8月25日にはパリを奪還、9月4日にはイギリス第21軍集団揮下のカナダ第1軍がベルギーアントウェルペン(アントワープ)を奪還していた。

しかし、この進撃速度は計画を大幅に上回るものであった。当時の連合軍の補給物資はコタンタン半島の先端の港湾シェルブールかノルマンディーの上陸地点を経由しており、イギリス海峡に面した他の重要な港湾は、たとえば1945年5月の降伏までドイツ軍が保持していたダンケルクのように、撤退が間に合わず取り残されたドイツ軍が占拠しているか、あるいは撤退するドイツ軍によりクレーンデリックなどの港湾施設が破壊され荷揚作業ができない状態にあった。連合軍の各部隊はその補給路の長さから来る燃料・物資の不足に悩まされることとなり、9月初旬には進撃が停滞した。

このためイギリス海峡に面した港湾を確保し、新しい補給路を構築することが早期進撃再開のために必要と考えられた。アントウェルペンは世界有数の良港であり、クレーンなどの港湾設備が残存していたため、連合軍にとってイギリス海峡に面した新たな補給拠点になる重要な候補であった。しかし港湾設備の大半はスヘルデ川を遡上した内陸にあり、また内水への航路上にはまだ機雷が敷設されていたため掃海の必要があった。唯一利用可能な河口域(オランダ領)の施設はドイツ軍が排除されておらず、港湾としての機能が果たせない状態にあった。河口域南岸のドイツ軍残存部隊に対してはカナダ第1軍が掃討作戦を展開中であったが、北岸のドイツ軍は手付かずの状況にあり、この地域のドイツ軍を残存させることはアントウェルペン港完全解放、ひいては連合軍全体の補給の障害となっていた。

連合軍、特にイギリス第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー元帥は、ベルギー・オランダ方面に戦力を集中し迅速なドイツ国内への進撃を行うことが、ドイツを打倒するために最適であると考えていた。ラインの下流域でドイツ国境を突破し、ルール工業地帯を打通することでドイツの継戦能力を奪って年内のクリスマスまでに戦争を終結させるということが彼の主張であった。これにはモントゴメリーと連合国内における一番乗り競争に絡む名誉の問題、あるいはイギリスは戦争における人的資源の消耗が激しく、早期の戦争終結を求めていたことが判断の根底にあったとされる。ただし、モントゴメリーには迅速な作戦遂行の経験が少ないこと、攻撃正面が狭く進撃部隊が比較的小規模になりドイツ軍からの反撃が予想されることから、連合軍内部で反対にあっていた。特に連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー大将は、ベルギー・オランダ方面だけではなくソ連東部戦線を含めた全戦線で攻撃をかけることにより、ドイツ軍からの反撃をおさえる方法を主張していた。そこで最高司令部はモントゴメリーに対して、当初スヘルデ川河口域北岸のドイツ軍駐留部隊の排除のみを要求していた。

しかし、9月8日V2ロケットによる初のロンドン攻撃が開始され、事態は大きく変化する。V2は超音速で飛来するため、当時の技術では迎撃不可能であった。つまりV2の攻撃を阻止するためには発射基地を破壊するしか方法がなく、そのため拠点と見られたオランダを奪還する必要が生じた。なおV2に関する技術情報は事前に入手されていたことから、この推測には相応の妥当性があり、また実際にV2はハーグを中心としたオランダから発射されていた。

9月9日、連合軍最高司令部はオランダの奪還を決断した。作戦地域には多くの河川があり、迅速な進撃のためには橋梁の確保が必須条件となった。そこで複数の橋梁を同時に確保するために空挺部隊を投入することとなった。作戦参加部隊は、第1空挺軍(3個空挺師団基幹)および英第30軍団(3個師団基幹)であった。

計画

ナイメーヘンへの降下状況

計画は二つの作戦、第1空挺軍の降下によってルート上の主要な橋を確保する「マーケット作戦」および英第2軍の第30軍団が先頭に立って、国道69号線に沿い3ないし4日でドイツ・オランダ国境付近まで北上する「ガーデン作戦」から成った。ニーダーライン川を越え北岸の町アーネム(アルンヘム)まで押さえればジークフリート線を完全に迂回してドイツ本国への進撃路を確保することができる。

マーケット作戦

「マーケット作戦」は第1空挺軍の五個師団のうち三個師団が投入された。主要な降下地点は南部からアイントホーフェンナイメーヘン、アーネムの3箇所であった。米第101空挺師団は英第30軍団の真北に降下しアイントホーフェンの北東ゾンとフェフヘルの橋を確保、米第82空挺師団はさらにその北東、グレーヴとナイメーヘンの橋を確保することとなった。最後に英第1空挺師団とポーランド第1独立パラシュート旅団はアーネムの鉄道橋と道路橋を確保するため、作戦地域の北端に降下することとなった。

アイントホーフェン地区にかかる橋は運河橋であり、爆破されても工兵による架設が可能であるが、ナイメーヘンとアーネムにかかる3つの橋は川幅も広く、ナイメーヘンの道路橋か、アーネムの道路橋・鉄道橋両方の橋が爆破されてしまえば作戦は失敗する。

マーケット作戦は「リフツ(lifts)」として知られている三つの大きな作戦のうち30,000人を降下させた最大のものであり、歴史上でも最大の空挺作戦だった。英第1空挺軍軍団長・連合空挺軍副司令官のフレデリック・ブラウニング中将は前線で指揮をするため自らの司令部を第一陣の降下部隊(米第82空挺師団)に加えた。

ガーデン作戦

「ガーデン作戦」は英第2軍の主力である第30軍団(機甲師団主力)が行った。彼らは空挺作戦の開始と同時に国境を突破し、国道69号線沿いに北上、作戦初日にアイントホーフェンの米第101空挺師団に合流し、2日目にはナイメーヘンの米第82空挺師団に合流、3日目あるいは遅くとも4日目にアーネムの英第1空挺師団に合流すると計画された。さらに幾つかの歩兵師団を防御任務のために空挺師団と交代させ、出来る限り早期に空挺師団を他の任務に振り分ける予定であった。

空挺兵は基本的に軽歩兵であるため,対戦車兵器などの重火器を十分に持つことができなかった。そのため、現実には空挺師団が補給無しで戦闘するには、4日間という期間は長すぎた。しかしながら、この時点で連合軍司令部はドイツ軍の戦力が壊滅しつつあると考えていた。実際、アントウェルペンからシェルト川河口域南岸のドイツ軍排除に着手していたカナダ軍正面のドイツ第15軍のほとんどは装甲車輌を持たず、すぐに退却するように思われた。したがって英第30軍団は国道69号線上で限定的な抵抗にしか直面しないと予想された。

ドイツ軍

アーネムへの降下状況

独第15軍の敗走は、9月前半にゲルト・フォン・ルントシュテット元帥が西方総軍司令官に着任することでようやく食い止められた。ヴァルター・モーデル元帥から代わったルントシュテットは、2ヶ月前にその職を解任されたばかりであった。ルントシュテットはヒトラーには疎まれていたが、彼の復職は前線の多くの将兵を歓喜させた。部隊はその週内に戦闘可能状態に補充された。具体的には、モントゴメリーの英第21軍集団の快進撃により分断されスヘルデ川南岸や大西洋岸に孤立していた独第15軍の敗走兵のほとんどを、連合国に奪還されず放置されていたスヘルデ川河口北岸堤防から続々と船上げし、カナダ第1軍とスヘルデ川の間のポケットから脱出させた。これによって、たまたま連合国の進撃予定ルート北西部へ兵員85,000人(車両6,000両、火砲600門以上)を加えることに成功した。コブレンツに赴任したルントシュテットは、直ちに国防軍情報部が報告した連合軍の60個師団に対する防衛計画を作成し始めた(このうち11は虚偽であり、実際には49個師団しか存在しなかった)。

ルントシュテットの着任により、兼任を解かれB軍集団司令官の専任となったモーデル元帥は、司令部をアーネムのすぐ西に位置するオースターベークに移した。B軍集団はベルギー・オランダ方面を侵攻・防衛するための歩兵が主力の部隊であったが、A軍集団(フランス侵攻部隊)の事実上の壊滅により撤退中のSS装甲師団も臨時に統括することになる。またフランス北部から撤退した第15軍(グスタフ=アドルフ・フォン・ツァンゲン大将)の残存兵力も合流させた。

クルト・シュトゥデント上級大将は、新設の第1降下猟兵軍を得たものの、海岸線の防衛を任されていた第719歩兵師団(オランダ占領部隊。シェルト川北岸などに駐屯)と第176歩兵師団(病傷兵が大半)など寄せ集めの兵をもってベルギー・オランダ国境のアルベルト運河沿いに防衛線を構築することとなった。彼はドイツ空軍降下猟兵の創設者であり、オランダ侵攻作戦クレタ島の戦いを前線指揮するなど、降下作戦に関して一級の豊富な知見をもっており、またシュトゥデントが得た3,000名の降下猟兵は、おそらく当時のドイツ軍ではほぼ唯一の戦闘即応部隊であった。敗残兵のみと予想していた連合軍将兵は、後にこの精鋭部隊の出現に驚かされる事になる。フランス北部で戦い壊滅した、独第85師団を指揮していたクルト・チル中将は、オランダの橋の交差地点で敗残兵を集め混成部隊を形成した。シュトゥデントはチルの編成した混成部隊を指揮下におきオランダ・ベルギー国境付近に一斉配備し、防衛線としての体裁を取り敢えずは整えた。

ヴィルヘルム・ビットリヒ親衛隊中将第2SS装甲軍団第9SS装甲師団第10SS装甲師団)はアーネム近郊で休養・再編成を行っていた。この部隊は、ノルマンディの戦いとそれに伴う艦砲射撃、空爆により大きな損害を受けており、兵員はノルマンディ投入前の20%(各師団の定数18,000名に対し、両師団あわせて7,000名)また装甲車両の大半は何らかの被害か故障を抱えていた。ファレーズ包囲戦からの脱出に成功したあと、9月の上旬までには一部の軽微な被害車両の修理が開始された。また残りの車両の過半は、ドイツ本国での修理のために貨車積載を開始していた。SS師団の装甲車両はオランダ各地の防衛のために、戦闘団へ引き抜かれ再編された。そのため師団はさらに弱体化していた。第2SS装甲軍団は、西部ヨーロッパにおける空挺部隊からの侵攻を撃破するために1943年に編成された部隊であり、過去に第9SS機甲師団は空挺部隊の着陸を阻止する実弾演習を行っていた。

アルベルト運河沿いに配置された兵士の多くから、対岸の連合国車両が夜間まで頻繁に行き来している状況が報告されており、近く大規模な侵攻作戦が展開されることが予想されたが、それが具体的にどのような作戦であるかは不明であった。

問題

ドイツ軍の動静に関する幾つかの情報がオランダから報告され始めた。しかしながらこの時点で計画立案は最終段階にあり、そうした報告書は原則無視された。偵察機による航空写真で、イギリス軍降下予定地のアーネムから北東わずか15キロの地点にドイツ装甲師団(第2SS装甲軍団)の展開が確認されたが、写真はすぐに廃棄された。

更に悪いことに、投入できる空軍輸送部隊は輸送機1,545機と発動機のない輸送用グライダー478機で、必要輸送能力のほぼ半分にすぎないことが判明した。そこで作戦初日に2度の降下が要求されたが、整備の必要から拒否された。この問題は非常に大きく、悪天候やあらゆるロスが航空支援能力をさらに低下させると考えられた。アーネムでは、北にデーレン(エーデ)飛行場があり高射砲の射程に入るため、目標の橋の真北での降下は拒否された。別の降下地点候補は橋の南部にあったが、そこは湿原であると考えられたため、重量のある装備を搭載したグライダーが着陸するには適さないと判断された。代わりに橋から15キロも西の地点(オースターベーク)が選ばれた。

戦闘

一日目、1944年9月17日(日)

オランダへ降下する空挺兵(1944年9月17日)
ナイメーヘンへ降下する空挺兵

マーケット・ガーデン作戦は成功裡に開始された。最初の降下は日中に正確に行われ、空挺部隊のほとんどは抵抗もなく目標降下地点に到着した。この点は夜間降下により部隊が20キロ以内に散在したノルマンディー上陸作戦とは大きく異なった。

南部のアイントホーフェンに降下したマクスウェル・D・テイラー率いる第101空挺師団は、ドイツ軍の抵抗にはほとんど遭遇せず、容易にフェフヘルの小さな橋を占拠した。しかし一方ゾンではドイツ軍の対戦車砲の前に進撃が遅れていた。同日遅く独第15軍の攻撃でアメリカ軍は撃退され、部隊はゾンの南へ退避した。

ナイメーヘンにはジェームズ・ギャビンの率いる第82空挺師団が降下した。町の南東に第505および508連隊、南部に504連隊が降下している。フラーフェの近くに降下した小グループはマース川にかかる橋の確保に成功した。しかしシュトゥデントが編成したドイツ軍防衛線は、空挺作戦における降下地点の重要性を熟知していたため、ナイメーヘン東部のフロースバークの丘を執拗に圧迫した。そのため、第82空挺師団の主力は同日中、丘の防衛に終始した。この丘は師団の補給降下地点であり、ここを空挺堡に師団司令部やブラウニング中将の作戦司令部を展開するため、奪われるわけにはいかなかった。また連絡の不良もあり、橋を確保する試みは同日遅くまで行われず、ナイメーヘン橋は依然ドイツ軍の手にあった。

北部アーネムに降下した英第1空挺師団の空輸は滞りなく行われたが、運悪くグライダーに搭載されていた偵察ジープが降下の時点で半数以上失われ、残りはアーネムへの先導をしている途中で待ち伏せにあった。したがって、アーネムの橋を確保するただ一つの可能性は徒歩であった。さらに、輸送機の不足から師団全兵力の輸送は行われず、初日に降下したのは第1パラシュート旅団と第1グライダー旅団のみであった。第1パラシュート旅団はアーネムの橋の確保を担当し、第1グライダー旅団は翌日の残余部隊(第4パラシュート旅団および第1グライダー旅団)のための降下予定地確保を担当することとなった。

英第1空挺部隊によるアーネムの橋の確保は困難を極めた。第1パラシュート旅団の三個大隊のうちの二つは、たまたま降下地点付近に駐屯していた第16装甲擲弾訓練予備大隊(セップ・クラフト親衛隊少佐麾下)、および第9SS装甲師団「ホーエンシュタウフェン」の一部の攻撃を受け進撃速度が遅れた。残りのジョン・フロスト中佐に指揮された第1パラシュート旅団第2大隊は幸いにも無防備な進撃路を発見した。途中にあった鉄道橋はドイツ軍に爆破されたが、19時半にはアーネムの道路橋に到着し防御陣地を形成した。しかし、残りの二個大隊は、後方から来た敵の増援により進撃が遅れた。よって降下第二陣を待ち、翌日の再攻撃が決定された。ドイツ側は降下地点(オースターベーク付近)からアーネム周辺の防衛線としてクラフト少佐の残兵と第9SS機甲師団を中核とした16の部隊をルートヴィヒ・シュピンドラー親衛隊中佐が組織するシュピンドラー戦闘団として再編した。

82空挺師団の降下

空挺作戦は、その複雑さを考慮すれば順調な滑り出しといえた。しかし、作戦は初日から重大な問題を抱えていた。ナイメーヘンとアーネムの橋はライン川の二つの支流に架けられ、南に架けられた他の橋とは異なり工兵隊による架橋は不可能であった。更に悪いことに、英第1空挺師団はそれらの橋の最北部、ニーダーライン川のさらに北岸に降下していた。ナイメーヘンおよびアーネムの橋のいずれもが確保できなかった場合、英第30軍団は降下した空挺部隊と合流する方法はなかった。1日目の終わりにアーネムはかろうじて確保された。しかし途中のナイメーヘンは依然としてドイツ側にあった。

更に事態を悪化させたのは、イギリス軍の無線機不調であった。イギリス軍の使用する長距離VHF無線機は誤った水晶を積んでいたため、送受信可能な周波数帯を作戦参加部隊では使用されていないものしか持てなかった。また、旅団間の通信に使われた短距離無線機は出力不足で電波が届かず、更には周波数の設定が誤ってドイツとイギリスの公共放送のチャンネルに合わせられていたため、無線による部隊間通信が不可能になった。現場では航空支援を得るための通信だけでも確保しようと長距離無線機を修理する努力が払われたが、2基ある無線機のうち1台は敵の迫撃砲火によって破壊され、もう1台も通信不能で放棄された。これは、使用する周波数に適合した長さのアンテナが装着されていなかったためである。

これらの問題は、通信装備の担当者に無線通信に対する充分な知識を持った者がいなかっためである。通信不良に関する技術的問題については戦前から研究が行われていたが、現場レベルへの教育は不十分だった。このため、それぞれの旅団は完全に離れて孤立した。更に、アーネムの英第1空挺師団では、通信不良から師団長のロイ・アーカート少将が直接情報確認に出たところでドイツ軍の攻撃を受け、民家の屋根裏に2日近く潜伏することを余儀なくされ、もっとも重要な作戦初期段階に指揮官不在の事態に陥った。

作戦開始1日目の天候は良好で、特に午前中は非常に安定していたにもかかわらず、航空部隊には誤爆を警戒して自己判断による攻撃の禁止が厳命されていたために、彼らはたとえドイツ軍と思しき地上部隊を発見しても、地上からの指示がない限り攻撃を行わなかった。以後は作戦が進行するにつれて現地の天候が悪化したため、航空支援は次第に困難となっていった。

英第30軍団は作戦開始時刻が13時であったにもかかわらず14時まで進撃を開始しなかったが、その理由ははっきりしていない。先日からの空爆と作戦開始前30分間の砲撃により国境付近のドイツ防衛線は壊滅状態にあったが、進撃開始後すぐに道路脇の塹壕から対戦車砲の砲撃を受け、破壊された戦車が行く手をふさいだ。この抵抗を排除するのに近衛機甲師団の数両の戦車と数時間を要した。午後5時には照明が灯され、彼らは依然アイントホーフェンの15キロ南の地点、ヴァルケンスヴァールトにいた。彼らはそこで野営することとなった。作戦は既に遅延していた。

ドイツ側にとっても事態はそれほど良くなかった。理由の大半は何が起こっているかはっきりしなかった点にある。偶然オースターベークに司令部があったモーデルは、戦略的に意味が何も無いはずである場所(オースターベーク)に突然降下してきたイギリス軍によって完全に混乱し、自らを誘拐しにきたゲリラ部隊であると結論を下した(空挺部隊による要人奪取についてはドイツ空軍によるムッソリーニ救出など前例があり、荒唐無稽な発想ではない)。一方の第2SS装甲軍団を指揮するヴィルヘルム・ビットリヒ親衛隊中将は事態を明確に把握していた。彼は橋の防御を強化するためにナイメーヘンへ第9SS装甲師団の偵察隊を直ちに送った。オースターベークの司令部からアーネム東部のドゥーティンヘムの司令部に避難してきたモーデルに対しビットリッヒはナイメーヘン、アーネムの橋の爆破を進言したが却下された(「きたるべき反攻の日のために」)。ビットリッヒは唖然としたが、いざと言う場合には自分の責任においてナイメーヘンの道路橋を爆破しようと部下に爆破の準備をさせた。アイントホーフェンの北西、フュフトで指揮を執っていたシュトゥデントの元には、墜落したグライダーから回収された重要な作戦書類、マーケットガーデン作戦の全計画(作戦目標、降下地点、時間表等)が届けられた。夜を徹して行われたテレタイプによる伝送により、マーケットガーデン作戦の全容は、オランダ駐留ドイツ軍の中枢に完全に把握されることとなった。

二日目、1944年9月18日(月)

アイントホーフェンのレジスタンスと米第101空挺師団の兵士
アイントホーフェンのレジスタンスと米第101空挺師団の兵士

アーネムでは未明にかけて橋の南端を確保するための戦いが繰り広げられた。ジョン・フロスト中佐率いるイギリス軍降下部隊は橋の南端を確保するため2回にわたり突撃を試みたが撃退された。また北端の居住区を占拠するイギリス軍に対してドイツ軍SS部隊が突入し、深夜から未明にかけて激しい白兵戦が展開された。

朝には、前日ナイメーヘンに送られた第9SS装甲師団の偵察部隊はアーネムの北端にイギリス軍部隊がいると連絡を受け、またナイメーヘンの橋の防衛には必要がないためアーネムへ戻った。アーネムの道路橋にさしかかったとき、彼らは橋のイギリス軍の火炎放射器PIATおよび携帯武器による攻撃を受け、約2時間の戦いで約70名の兵員と22両の車両を失い壊滅した。オースターベークで足止めされていた二つのイギリス軍旅団はアーネムの橋の地点に移動しようとしたが、新たに到着した第10SS装甲師団によって撃退された。降下第二陣の英第1空挺師団第4パラシュート旅団は発進地のイギリスの濃霧により、出発が遅れていたが午後にはアーネムに到着した。しかし降下地点はドイツ軍の攻撃をうけ増援は戦闘の真っ只中でおこなわれたため失敗し、多くの兵員が失われ物資の大半はドイツ軍に奪われた。

ナイメーヘンの第82空挺師団も問題を抱えていた。グレーヴはよく守られたが、ドイツ軍はナイメーヘンの東の丘に展開した米第82空挺師団の降下地点を攻撃し続けた。午前には午後一時に到着予定であった降下第二陣の着陸目標地点のうちの1つを確保した。全エリアからの降下地帯への反撃で午後三時には同地帯の支配はドイツ軍の手に戻ったが、幸いにもイギリスでの遅れにもかかわらず降下第二陣は午後2時に到着したため補給と増援は成功した。

ゾン橋の確保に失敗した米第101空挺師団は、ベストから数キロ遠方の同様の橋の確保を試みた。しかしながら強固な抵抗に遭い結局あきらめた。この日の空挺補給は順調におこなわれたが、ヴィルヘルミナ運河に架かる全ての橋はすでにドイツ軍により爆破され、橋を確保する当初の計画は完全に失敗した。他の部隊は地上部隊と合流のため南へ移動し続け、結局アイントホーフェンの北端に達した。正午ごろ彼らは英第30軍団からの偵察部隊に遭遇した。彼らは午後四時に南の本隊と無線交信を行いゾン橋の状況について報告を行い、部隊を南下させるために仮設した橋が戦車の重量には耐えられない事、ベイリー式仮設橋でのかけ直しの必要性、前線への輸送依頼などを報告した。

英第30軍団はすぐにアイントホーフェンに着き、イギリス軍工兵部隊がゾン橋付近にベイリー式の仮設橋を組み立てるのを待ちながらその夜までにゾン橋の南で野営した。アイントホーフェンでは連合軍による解放を喜ぶ市民が路上にあふれ、英第30軍団の行く手を阻んだ。二日目の終了までに作戦は36時間遅延し、主要な両方の橋は依然としてドイツ軍の支配下にあった。

三日目、1944年9月19日(火)

この時点で第1空挺軍のほとんどは計画地点に降下しており、唯一の例外が三日目の遅くに第三陣として降下する予定のポーランド第1独立パラシュート旅団であった。オーステルビークの第1空挺軍からは、フロスト中佐の部隊を支援するための別の試みがなされたが、ドイツ軍の抵抗は強力なものだった。橋に到達するいかなる可能性も無い様に考えられ、派遣された救援部隊は町の西、オーステルビークに防衛線を形成するため撤退してしまった。三日目の早朝にはアーネム橋の北端を占拠するフロストの元に投降を呼びかける使者が派遣されたが、これは無視された。その間に橋にはドイツ軍の戦車が到着した。午後にはティーガーがフロストの部隊が潜んでいる北岸の建物に対して直撃の距離から砲撃を開始した。

午後五時に降下第三陣のポーランド部隊が最後に到着したが、ドイツ軍が待ちかまえる地域に直接降下し無線の故障で司令部に報告できず多くのポーランド兵が戦死した。同時に投下されたいくらかの補給物資の大半はドイツ軍の手に落ち、第1空挺軍はその物資の一割しか回収できなかった。

米第82空挺師団の行動は幾らかうまくいっていた。同師団は前進してきた第30軍団を発見しその朝に合流することが出来た。戦車の支援の下彼らはドイツ軍を速やかに撃退し、協力してナイメーヘン橋を確保することを決定した。英第30軍団近衛機甲師団と第82空挺師団505連隊は南から攻撃し、同504連隊はボートで渡河し北を確保することとなった。午後遅くにボートが要求されたが、南での交通渋滞によりそれらは翌日まで到着しなかった。第30軍団の戦闘車両はナイメーヘン橋の正面に展開した。

米第101空挺師団はベストを確保するため前日に南側に送られ、新たな攻撃に直面し土地を明け渡した。しかしながらイギリス軍の戦車が到着しドイツ軍は午後遅くに撃退された。その後パンターがゾンに到着し、ベイリー橋に砲撃を始めた。しかし二両のパンターは新たに投下された対戦車砲によって撃破され、橋は守られた。

四日目、1944年9月20日(水)

アイントホーフェンで歓迎を受ける連合軍(1944年9月20日)

アーネムではフロスト中佐の第1パラシュート旅団第2大隊は持ちこたえ続けた。正午近くに無線機が回復した。彼らは、英第1空挺師団の残りがドイツ軍を排除する可能性を持っておらず、英第30軍団が彼らの南、ナイメーヘン橋の正面に釘付けにされていることを知った。午後までにドイツ軍はアーネム橋を完全に支配しており、フロスト達イギリス軍が防御していた家屋への砲撃を始めた。師団の残りはアーネム西方のオーステルビークに防衛拠点を形成し、英第30軍団の到着を待った。

ナイメーヘンでは前日の夜に要請したボートが到着した。午後一時、イギリス本土の航空支援の予定時刻にあわせて、"オールアメリカン"第82空挺師団・504連隊の26艘の手漕ぎボートは機関銃掃射と迫撃砲のなか渡河を強行した。この渡河は戦史における最も勇敢な行動の一つとして見なされた。彼らは河岸を確保し、ついで鉄道橋を確保し(ここは戦車での渡橋は不能)、北岸の機銃台座や要塞を攻撃しはじめた。北岸の防衛が崩れだすと、ナイメーヘン道路橋南岸を確保していたドイツ兵も敗走を始めた。南岸の英第30軍団(コールドストリームガーズ連隊)の車両は道路橋を蹂躙攻撃し、北岸の504連隊と合流した。ビットリッヒの部下たちが設置した爆破装置はなぜか起爆せず、ナイメーヘン橋は四日目にして連合軍の手に落ちた。

アーネムの友軍への道は確保されたが、英第30軍団の車両は進軍を停止した。ナイメーヘンからアーネムへの街道はオランダに特有の低湿地帯に築かれた台状の道で、歩兵支援のない車両の単独走行は対戦車砲の格好の標的になる危険があった。第82空挺師団の将兵は激昂して即座の進軍を主張したが、英第30軍団は安全を優先した。すなわち後方からの陸軍歩兵部隊の到着を待ち、歩兵支援を受けたうえでの進軍を選択した。その間にドイツ軍は街の東側の丘からの別の攻撃を組織した。アーネム橋を死守するフロストの部隊が救援される最後の希望は失われた。

アイントホーフェンでは第101空挺師団と様々なドイツ部隊との戦闘は継続しており、結局弾薬不足の車両を残して数両のパンターの再突撃が道路を分断した。

五日目、1944年9月21日(木)

ドイツ軍の攻撃は激しかったが、五日目の朝にして事態は連合軍側に好転し始めた。英第30軍団はナイメーヘン橋を渡りアーネム橋で進行中の戦闘に向けて急いだがそれは遅すぎた。フロスト中佐の部隊は一握りの兵が二軒の家に立てこもり、彼らは持っていた弾薬のほぼ全てを使い果たした。最後の無線通信「弾薬が切れた、神よ王を救いたまえ」は折からの通信回線の不調により友軍には届かずドイツ軍の通信手が傍受していた。結局フロスト中佐の第1空挺旅団第2大隊は降伏した。

ちょうどその頃、悪天候で二日間遅れていたポーランド旅団(在英亡命ポーランド人からなる志願兵)の主力が到着した。ニーダーライン川の北部はすでにドイツ軍の勢力下にあり降下できなかった。したがってポーランド第1独立パラシュート旅団は新たな降下地点を川を横切った南方の湿地帯に選択した。降下は成功したが、イギリス軍と連絡を取る予定だったドライエルの渡し船は索綱が切られたため下流に流されていた。その結果対岸の英第1空挺師団との連絡手段がなく、新戦力の投入は浪費されることとなった。

その間、英第30軍近衛機甲師団の主力はナイメーヘンにとどまっていた。彼らの南側は依然として脅威にさらされており指揮官はナイメーヘン前方への部隊の移動を拒絶した。そして英第43歩兵師団の担当ラインまで後退し街を奪取するため移動することを無線連絡した。彼らの後方には30マイルに渡る長い交通渋滞があり、第43歩兵師団は翌日まで到着しなかった。しかしイギリス軍の砲兵部隊は十分に接近しており、オーステルビークの中の部隊と無線連絡を取り、そして彼らに接近することを試みたドイツ部隊への攻撃を始めた。

ドイツ軍の攻撃は依然道路沿いに続けられた。しかし連合軍の優位は明白に成りつつあった。ドイツ軍の攻撃は停滞し、イギリス軍と米第101空挺師団はより多くのエリアを確保した。

六日目、1944年9月22日(金)、不吉の金曜日

ポーランド兵は渡河手段がなかったため、ナイメーヘンからのイギリス軍砲兵の砲撃と共に戦闘を座視することを強いられた。同日の午後、2名のイギリス空挺兵がライン川を泳いで渡り絶望的な状況を伝え、出来る限りの支援を求めた。ポーランド部隊は薄いゴム製のボートを装備していたが、夜には渡河を試みることを約束した。この試みはドイツ軍の知るところとなり、砲火を受けた結果第8ポーランド降下中隊の内渡河できたのはわずかに52名だけだった。

この時点で戦闘地域の大半は連合軍の支配下にあったが、問題の全ては英第30軍団とニーダーライン川の北側にあった。第43歩兵師団が到着すると直ちに事態は改善され、近衛機甲師団はアーネム橋の再奪取のため攻撃を試みた。

一方ドイツ軍は他の考えを持っており、前夜に二つの混成装甲部隊を組織しフェフヘルとグレーヴ間の国道69号線の中間地点の両脇に配置した。彼らは攻撃を始め一方では連合軍部隊が国道までたどり着き防御線を切断したが、もう一方では連合軍を停止させた。アイントホーフェン、ナイメーヘンの「地獄の街道」に対する独15軍団の攻撃は激化し、アイントホーフェン-ナイメーヘン間の補給路が分断され、ナイメーヘンが包囲を受けかねない状況のなか、アーネムへの連合軍の前進は不可能であった。

七日目、1944年9月23日(土)

ドイツ軍はポーランド兵の動静をうかがい、河岸でイギリス軍から分断するのにその日の残りを費やした。イギリス軍はどうにか持ちこたえたが、両岸とも大きな損害を被った。ドイツ軍は南岸のポーランド兵を攻撃したが、数両の戦車が英第30軍団から到着しドイツ軍を撃退した。カナダ軍からのボートと工兵がその日到着し、その夜ポーランド第3降下兵大隊の150名がニーダーライン川を渡河しオースターベークの英第1空挺師団に合流した。

南側では道路を跨いだドイツ軍の攻撃が停止したが、道路は依然として分断されていた。英第30軍団は近衛機甲師団の一部を20キロ南に送り、再度道路を確保した。北側の部隊の残りはアーネムから数キロの地点で歩兵部隊を待ち続けた。

なお、第82空挺師団の残余である第325グライダー連隊が予定(当初予定では19日)より大幅に遅れて降下している。

八日目、1944年9月24日(日)

米第101空挺師団の降下(1944年9月24日)

ドイツ本国から到着した45輌のティーガーIIが戦線に投入され、大量の砲撃支援を受けたドイツ軍部隊がフェフヘルの南でふたたび地獄の街道の分断に成功した。幾つかの部隊がその地域にいたが、攻撃を食い止めることは出来なかった。ドイツ軍は夜に向けて素早く防御拠点を整えた。

この時点では連合軍にとってこれらの行動がどれほど危険なものであるかは明らかではなかった。しかし、マーケット・ガーデン作戦は中止され防御に切り替えられることが決定され、オースターベークの英第1空挺師団は撤退、また予定されていた降下はその夜取り消された。ナイメーヘンの前線が新しい戦線として固定された。

九日目、1944年9月25日(月)

午後10時に英第1空挺師団の撤退が開始された。撤退はドイツ軍の傍受を想定して「ベルリン作戦」と呼ばれ、イギリス軍およびカナダ軍の工兵部隊がニーダーライン川を14隻のモーターボートと多数の上陸舟艇を使って渡河させ、ポーランド第3降下兵大隊が北岸を援護した。翌26日の早朝までに2,000名が撤退完了したが300名が依然北岸にあり、夜明けからのドイツ軍の攻撃が撤退作業を停止させ、結局彼らはドイツ軍に降伏した。英第1空挺師団の10,000名の内、脱出できたのは2,000名であった。

南方では新たに到着した英第50歩兵師団(ノーサンブリア師団)がドイツ軍の確保する国道を攻撃した。翌日までにドイツ軍は排除され抵抗は終了した。ドイツ軍は撤退の際に大量の地雷を敷設していったため、道路の安全が確保されるのに数日を要した。回廊は安全になったがどこにも通じなかった。

結論

マーケット・ガーデン作戦時の北西ヨーロッパ
破壊されたナイメーヘン市街(1944年9月28日)
メモリアルとして残される25ポンド砲
ジョン・フロスト橋

今日マーケット・ガーデン作戦に対する見方は二分される。アメリカの歴史家はモントゴメリーの用兵を評価しない傾向にあり、一方イギリスの歴史家はアメリカ軍の貢献を評価しない傾向にある。

アイゼンハワーはその死までマーケット・ガーデン作戦に行う価値があったと信じた。コーネリアス・ライアンアイゼンハワーの発言を引用する。「...あなたがイギリスで何を聞いたか知らないが、イギリス人はアメリカ軍の指揮系統を理解したことはなかった。...私はイギリス人から賞賛の言葉は一言も聞かなかった。あなたもモントゴメリーのような人たちから賞賛の言葉を聞くことはないだろう。」しかし、アイゼンハワーはこのような見解を彼自身の胸に留め、戦争の終了まで明らかにしなかった。

問題は作戦がライン川支流、ニーデルライン川とワール川に架かる両方の橋を占領、確保することを要求した点にあった。アーネムの橋の北端はかろうじて確保されたものの、ナイメーヘン橋はドイツ軍の手中にあり、英第1空挺師団は他の空挺軍、地上軍と希望もなく切断された。ナイメーヘン橋の占拠に成功しても、アーネム橋が得られなければ事態は好転しなかった。これはニーデルライン川を渡って空挺部隊を救援する必要を示した。そしてこのような不測の事態に対して許可される渡河計画はそもそも存在しなかった。

フェフヘルやグレーヴなど、重要な橋の確保はその付近に降下が行われた場合直ちに容易に達成された。アーネムとナイメーヘンでは英第1空挺師団や米第82空挺師団の半日にも及ぶ徒歩やその他の努力にもかかわらず、成功の可能性はほとんど無かった。

ジョン・フロスト中佐の第1パラシュート旅団第2大隊はアーネム道路橋を巡る戦闘で失われたが、アーネム橋が唯一の渡河手段ではなかった。実際、作戦計画の段階でフェリーがドライエルで利用可能であることは確認されており、英第1空挺師団を支援するために計画の当初からそれを確保・使用することを想定していれば、救援作戦はより安全に展開されたとも考えられている。

英第30軍団司令官ブライアン・ホロックス中将は作戦の別の方針を求めた。約25キロ西のレーネンにアーネム橋に似た橋があり、その橋はドイツ軍の戦力がオーステルビークの防衛に振り向けられていたためほとんど無防備である筈だった。実際その通りで、第30軍団がその橋を攻撃すれば反撃を受けることなく彼らはオーステルビーク西のドイツ軍防衛ラインの後方を確保できた。しかしながらこの時までに、ドイツ軍の継続的な抵抗が行われモントゴメリーはチャンスを掴み損ねた。

装備にも重大な問題があった。連合軍はドイツの装甲車輌の配備が壊滅状況にあると見なしていたため、降下部隊に十分な対戦車兵器(バズーカPIAT)が配備されなかった。しかしドイツ軍歩兵部隊にはパンツァーファウストパンツァーシュレックなど強力な対戦車兵器が配備されていたため、連合軍の降下兵はドイツ軍の装甲車両の攻撃に対して逃げるか隠れるか、降下地点に設置した僅かな対戦車砲の支援攻撃を要請しなければならない状況であった。さらに通信機器の不調により部隊は各個に孤立し状況の把握が困難を極め、ドイツ軍の迅速な展開に対してつねに対処が遅れた。支援攻撃の要請や、イギリス本土から飛来した航空支援に対して地上から支援要請をおこなえない不具合から、好機を逸する不手際も発生した。

また、連合軍がモーデル、ビットリッヒ、シュトゥデントといった有能なドイツ軍指揮官に直面したことを考慮すべきである。連合軍が奮戦した一方、ドイツ軍はそれ以上に奮戦し車輌を撃破した。モーデルが2つの重要な道路橋の爆破を禁じたことは、結果として連合軍にとっては悪意に満ちた挑発行為となった。また急ごしらえの混成軍で、兵器も旧式のものが中心であったにもかかわらず、ビットリッヒ、シュトゥデントの防衛線は執拗に降下地点に攻撃仕掛け続け、連合軍の空挺補給・増援を困難にした。アイントホーフェン-ナイメーヘン間(地獄の街道)、ナイメーヘン-アーネム間(孤立地帯)を結ぶ「ただ一本の道」に側面攻撃をかけ続けることは英第30軍団の進軍を妨げ作戦の達成をより困難にした。

その中で連合軍はことごとく悪い選択を行い、好機は無視された。グライダー連隊の指揮官はアーネム橋南部に着陸し橋を速やかに確保するための小部隊を要求した。このことはアーネムで戦いの趨勢を変更する可能性があった。フロスト中佐の部隊は南岸からの支援により橋は両岸で完全に確保できる可能性があった。

イギリスでは、グライダー降下部隊である第52ローランド歩兵師団の指揮官イクウェル・スミス少将がアーネム、およびオーステルビークで苦闘するロイ・アーカート少将の英第1空挺師団を支援するためブラウニング中将に出撃を懇願したがこれは許可されなかった。ポーランド第1独立空挺旅団のスタニスラフ・ソサボフスキー少将は霧中での危険にもかかわらず降下を申請したが、これも拒絶された。

ナイメーヘンの橋が奪取された四日目、米第82空挺師団の果敢な渡河作戦によりアーネムへの道が開かれた段階では、ナイメーヘン-アーネム間のドイツ軍防衛線はまったくの空白状態であり、またアーネムの苦戦を知らされていた第82空挺師団の将兵は英第30軍団の即座の前進を確信していたが、この期待は裏切られた。慎重な進軍計画と無駄にされた時間はドイツ軍の再配備に費やされ、あとわずか10数キロに満たない友軍への道を塞ぐ結果となった。

最後に、そして恐らく最も重要なことはオランダのレジスタンスが連絡将校の戦死によりアーネムで連合軍と連絡が取れなかったことである。数百人の十分に武装されかつ土地勘のあるレジスタンス闘士は、彼らの知識およびドライエル・フェリーと秘密電話網と言った二つの特殊装備で大きな助けとなっていたと考えられる。ドライエル・フェリーはライン川両岸の戦力を統合することが出来た可能性が十分にあり、秘密電話網はアーネムやナイメーヘンを始めとした重要拠点の連絡を可能にしていたと考えられる。後者は特に重要だった。皮肉なことに、レジスタンスによって交換所が占拠されていた一般電話回線網は、戦闘地区全域において通話可能な状態で維持されていた。つまり無線通信に頼らずとも民家の受話器を使いさえすれば、最高司令部に戦況を伝えることは可能であった。

結局モントゴメリーはマーケット・ガーデン作戦を「90%成功した」とし、「私の偏見的な見方では、もし作戦が当初から援護され、十分な航空機、地上兵力、そして遂行するのに十分な資材が与えられていたなら、私の失敗や悪天候、アーネム地域に存在した第2SS装甲軍団にもかかわらず成功していたであろう。私はマーケット・ガーデン作戦を擁護することを後悔していない」と自己弁護した。

しかし、オランダのベルンハルト王子はコーネリアス・ライアンに「私の国にはもう一度モントゴメリーの言うような『大成功』を実現させる余裕はない」と語った。モントゴメリーは作戦の被害をアイゼンハワーに正確に報告しなかったが、詳細が明らかになるにつれ彼を二度と信用しなくなった。アイゼンハワーはモントゴメリーに対して最低限の戦略目標であるスヘルデ川河口域北岸のドイツ軍の排除とアントウェルペン港の解放のみを命じた(スヘルデの戦い)。戦いは12,873名もの兵士の戦傷・戦死を出しながらも11月8日に成功し、掃海されたアントウェルペン港を経由した補給路は西部戦線に新たな補給を開始した。しかし、西部戦線はマーケット・ガーデン作戦の失敗により完全に停滞し、1944年冬のバルジの戦い、翌45年の春の目覚め作戦を経て、3月にレマーゲン鉄橋の確保に成功するまで連合軍はライン川を越えることができなかった。

なお、アーネムの橋は作戦後に連合軍の爆撃によって破壊されるが、戦争終結後速やかに架け直された。奮戦したフロスト中佐に敬意を払い、当時のままの姿で復旧した上で「ジョン・フロスト橋」と改名され現在に至っている。

文献

  • コーネリアス・ライアン『遥かなる橋 上:史上最大の空挺作戦』早川書房、1975年。ASIN B07RQ48SPV 
  • コーネリアス・ライアン『遥かなる橋 下:史上最大の空挺作戦』早川書房、1975年。ASIN B09CCMYPB2 
  • バーナード・モントゴメリー 著、高橋光夫 訳『モントゴメリー』読売新聞社、1971年。ASIN B000J9GDYO 
  • ケネス・マクセイ(著)『ドイツ機甲師団 電撃戦の立役者』〈第二次世界大戦ブックス15〉、加登川幸太郎(訳)、サンケイ新聞社出版局、1971年。ASIN B000J9GU4W
  • ケネス・マクセイ(著)『米英機甲部隊―全戦車,発進せよ!』〈第二次世界大戦ブックス50〉、菊地晟(訳)、サンケイ新聞社出版局、1973年。ASIN B000J9GKSS
  • チャールス・マクドナルド(著)『空挺作戦―縦横無尽の奇襲部隊』〈第二次世界大戦ブックス36〉、板井文也(訳)、サンケイ新聞社出版局、1972年。ASIN B000J9H082
  • アラン・ロイド『危うし空挺部隊』石川好美 訳、朝日ソノラマ〈文庫版航空戦史シリーズ 56〉、1985年。ISBN 978-4257170563 
  • 学習研究社 編『ヨ-ロッパ空挺作戦 (歴史群像 第2次大戦欧州戦史シリーズ Vol. 22)』学研パブリッシング、2003年。ISBN 978-4056031737 
  • アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦1939-45(下)』平賀秀明(訳)、白水社、2015年。ISBN 978-4560084373 
  • Reynolds, Michael (2001). Sons of the Reich: The History of II SS Panzer Corps. Spellmount Publishers Ltd. ISBN 978-1862271463 

小説

映画

  • 『第一空挺兵団』-Theirs is the Glory:“アルンヘム攻防”を描くセミ・ドキュメンタリー映画。戦後その地でロケが行われ、出演者は全部この作戦に従った兵士の二個中隊だった。
  • 遠すぎた橋』 - A Bridge Too Farコーネリアス・ライアンによるノンフィクション『遙かなる橋』が原作。リチャード・アッテンボロー監督により1977年に映画化された。
  • バンド・オブ・ブラザース』 - “Band of Brothers”:第101空挺師団第506パラシュート歩兵連隊第2大隊E中隊を描いたスティーヴン・アンブローズのノンフィクション作品を基に2001年に製作されたTVドラマ。第4話『補充兵』(“Replacements”)がアイントフォーヘン解放からニューネンでの戦闘を描いる。また、第5話『岐路』(“Crossroads”)でもイギリス空挺師団の生き残りを救出するシーンがある。

ゲーム

  • Arnhem, Panzerfaust Publications, 1972,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Arnhem(Westwall), SPI, 1976,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Arnhem, SPI, 1976,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Highway to the Reich, SPI, 1977,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Red Devils(Paratroop),SPI, 1979,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • R.U.S.E.,エレクトロニック・アーツ,2010,(リアルタイムストラテジー)
  • Storm Over Arnhem, アバロンヒル, 1981,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Arnhem Bridge, Attactix Adventure Games, 1982,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • マーケットガーデン作戦, ホビージャパン, 1982,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Hell's Highway(地獄のハイウェイ), Victory Games/ホビージャパン, 1983,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Operation Market Garden, Game Designers' Workshop(GDW), 1985,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Air Bridge to Victory, GMT Games, 1990,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • クロースコンバット遠すぎた橋, マイクロソフト, 1996
  • Arnhem 1944, Dragon, 1996,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Arnhem 1944, Vae Victis, 1997,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Arnhem:The Third Bridge(ASL), Critical Hit, 1999,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • SCREAMING EAGKES IN HOLLAND, Multiman Publishing(MMP), 2002,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Arnhem - Defiant Stand, Critical Hit, 2003,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Monty's Gamble:Market Garden, Multiman Publishing(MMP), , 2003,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Target Arnhem:Across 6 Bridges, Multiman Publishing(MMP), 2005,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Toppling the Reich, Against the Odds, 2006,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • マーケットガーデン作戦(ドイツ装甲軍団), 『コマンドマガジン日本版第74号』付録, 国際通信社, 2007,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • メダル・オブ・オナー エアボーン, エレクトロニック・アーツ, 2007,(PC版,PlayStation 3版,Xbox 360版)
  • カンパニーオブヒーローズ:オポージング フロント, Relic Entertainment, 2007
  • Witches Cauldron ,Critical Hit, 2007,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • The Devil's Cauldron, Multiman Publishing(MMP), 2007/2008,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • Highway to the Reich(Reprint edition), Decision Games, 2008,(シミュレーションゲーム(ボードゲーム))
  • ブラザー イン アームズ ヘルズハイウェイ, ユービーアイソフト, 2008,(PlayStation 3版,Xbox 360版)
  • Holand 44, GMT games, 2017( シミュレーションゲーム(ボードゲーム))

出典

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外部リンク