ヴァンウォール
エントリー名 |
GAヴァンダーヴェル (1954) ヴァンダーヴェル・プロダクツ・リミテッド (1955 - 1960) |
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チーム国籍 | イギリス |
チーム本拠地 | イギリス ロンドン アクトン |
主なチーム関係者 |
トニー・ヴァンダーベル(創設者) コーリン・チャップマン フランク・コスティン |
主なドライバー |
スターリング・モス モーリス・トランティニアン ハリー・シェル スチュアート・ルイス=エヴァンズ トニー・ブルックス |
F1世界選手権におけるチーム履歴 | |
参戦年度 | 1954 - 1960 |
出走回数 | 29 |
コンストラクターズ タイトル | 1 (1958) |
ドライバーズ タイトル | 0 |
優勝回数 | 9 |
通算獲得ポイント | 57 |
表彰台(3位以内)回数 | 13 |
ポールポジション | 7 |
ファステストラップ | 6 |
F1デビュー戦 | 1954年イギリスGP |
初勝利 | 1957年イギリスGP |
最後のレース | 1960年フランスGP |
ヴァンウォール(Vandervell Products Ltd.)は、かつてF1に参戦していたコンストラクター。1958年に制定されたコンストラクターズ・チャンピオンシップの初代獲得者である。ヴァンウォールという名称は、母体であるヴァンダーヴェル社とその商標「シンウォール」を組み合わせて命名された。
沿革
参戦の理由
ヴァンダーヴェル社の創業者トニー・ヴァンダーヴェルは、アメリカ人技術者が開発したベアリングを「シンウォール(Thinwall:「薄い壁」)」と名付け、イギリス国内で特許を取得した。この技術は内燃機関の高回転化に貢献し、第二次世界大戦中の戦闘機のエンジンなどに使われ、ヴァンダーベル社の事業を成功させた。
レース愛好家であるヴァンダーヴェルは、フェラーリの市販スポーツカーの顧客としてエンツォ・フェラーリと交際していた。また、スクーデリア・フェラーリのF1マシン、フェラーリ・375F1を譲り受け、「シンウォール・スペシャル」と名付けて1951年のF1世界選手権や国内レースに出走させていた。フェラーリ初の自製エンジン、ティーポ125にシンウォール・ベアリングが使われるなど、両者の関係は親密なものであった。
ところが、その関係にひびが入る。ある日、ヴァンダーヴェルは購入車の故障のクレームを言いにフェラーリの本拠地モデナを訪れたが、多忙を理由に3時間半も待ちぼうけを食わされた。ヴァンダーヴェルはエンツォのあしらいに立腹し、レースで見返すことを決意する。後援していたBRMのプロジェクトが難航していたこともあり、自らコンストラクターを設立してF1に参戦することとなった。
ちなみに、フェラーリへの不満が動機という点では、後のランボルギーニのスポーツカー開発も同類である(この有名なランボルギーニとのエピソードについては、後年作り話だったことが判明。そういう事実は一切無かったとのこと)。エンツォは顧客をぞんざいに扱う性癖があり、その不遜さが幾つもの因縁を生み出している。
英国勢の旗手
クーパー製シャシーにノートンのオートバイエンジンを改造した直4エンジンを搭載したヴァンウォールのF1マシンは、1954年の地元イギリスGPでデビューした。翌1955年まで成功を収められず、マイナーフォーミュラの新興コンストラクターロータス・エンジニアリングにシャシー製作を依頼。コーリン・チャップマン[1]らの手掛けたマシンは徐々に戦闘力を上げ、1956年のノンタイトルレースで初勝利を挙げた。
1957年には、スターリング・モス(第2戦から加入)、トニー・ブルックス、スチュアート・ルイス=エヴァンズら母国のスタードライバーを揃え、フェラーリやマセラティといったイタリア勢を脅かす存在となる。チームとして、また英国車としての初勝利は第5戦の地元イギリスGPで、当時の規則では1台のマシンを乗り継ぐことが許されていた[2]ため、モスとブルックスの手により果たされた。モスはペスカーラGP・イタリアGPでも連勝し、フェラーリの地元で鼻を明かすことに成功した。
栄光と悲劇
1958年も強力なラインナップを保ち、フェラーリを圧倒する快進撃を見せる。モスが第3戦オランダGP、第9戦ポルトガルGP、最終戦モロッコGPで勝ち、ブルックスが第5戦ベルギーGP、第8戦ドイツGP、第10戦イタリアGPで勝つなど、シリーズ11戦中6勝を挙げる強さで、この年からコンストラクターにも与えられるようになったチャンピオンの栄光を手にした。しかし、勝利が分散した結果、ドライバーズチャンピオンはフェラーリのマイク・ホーソーンに奪われた。この年4勝[3]したモスは最速のドライバーでありながら、1勝のホーソーンに有効ポイント上僅か1点差で及ばなかった。
そして、最終戦モロッコGPでは、チームに愛されたルイス=エヴァンズが炎上事故で重傷を負い、後日死亡するという悲劇も起こった。トニー・ヴァンダーベルはフェラーリへの復讐を果たし、医師から体調面で忠告されていたこともあり、このレースをもって本格参戦を中止した。1959年、1960年にも各1レース1台ずつ出走したが、すでに戦闘力は失われ、やがてヴァンウォールの名はレース界から消滅した。
チーム発足・参戦から僅か4年で栄光をつかみ、その頂点で実質的に幕を閉じたヴァンウォールの歴史はF1史上でも稀有なものであった。それはまた、クーパー、BRM、ロータスといった英国勢の黄金時代につながる先駆けでもあった。
ブランドの復活
2023年にコデワにより、ル・マン・ハイパーカー規定車両のヴァンウォール・ヴァンダーヴェル 680が開発され、ヴァンヴォールの名前がレース界に復活した。
変遷表(コンストラクターとしての参戦のみ)
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | ポイント | 優勝数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1954年 | GAヴァンダーヴェル | スペシャル | P | ヴァンウォール254 (2.5L L4) |
- | ピーター・コリンズ | -* | -* | 0 |
1955年 | ヴァンダーヴェル・プロダクツ・リミテッド | VW55 | P | ヴァンウォール254 (2.5L L4) |
- | マイク・ホーソーン ケン・ウォートン ハリー・シェル |
-* | -* | 0 |
1956年 | ヴァンダーヴェル・プロダクツ・リミテッド | VW2 | P | ヴァンウォール254 (2.5L L4) |
- | モーリス・トランティニアン ハリー・シェル マイク・ホーソーン コーリン・チャップマン フロイラン・ゴンザレス ピエロ・タルッフィ |
-* | -* | 0 |
1957年 | ヴァンダーヴェル・プロダクツ・リミテッド | VW5 | P | ヴァンウォール254 (2.5L L4) |
- | スターリング・モス トニー・ブルックス スチュアート・ルイス=エヴァンズ ロイ・サルヴァドーリ |
-* | -* | 3 |
1958年 | ヴァンダーヴェル・プロダクツ・リミテッド | VW5 | D | ヴァンウォール254 (2.5L L4) |
- | スターリング・モス トニー・ブルックス スチュアート・ルイス=エヴァンズ |
1位 | 48(57) | 6 |
1959年 | ヴァンダーヴェル・プロダクツ・リミテッド | VW59 | D | ヴァンウォール254 (2.5L L4) |
- | トニー・ブルックス | NC | 0 | 0 |
1960年 | ヴァンダーヴェル・プロダクツ・リミテッド | VW11 | D | ヴァンウォール254 (2.5L L4) |
- | トニー・ブルックス | NC | 0 | 0 |
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | 燃料・オイル | ドライバー | ランキング | ポイント | 優勝数 |
- 斜体になっているドライバーはスポット参戦など
- * コンストラクタータイトルは1958年から設定された。このためコンストラクターとしてのポイントやランキングは存在しない。
脚注
- ^ チャップマン自身も1956年フランスGPに出場し、予選で5位となったが決勝は欠場している。
- ^ 分乗は翌1958年に禁止された
- ^ 上述した3勝に加え、アルゼンチンGPでロブ・ウォーカー・レーシングチームのクーパーを優勝させた。