国淵
国 淵(こく えん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家。字は子尼。青州楽安国益県(現在の山東省濰坊市寿光市)の人。子は国泰。
事跡
姓名 | 国淵 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 子尼(字) |
本貫・出身地等 | 青州楽安国益県 |
職官 | 司空掾属→居府長史 |
爵位 | - |
陣営・所属等 | 曹操 |
家族・一族 | 子:国泰 |
最初、鄭玄に師事していたが、動乱が起きると邴原・管寧らと共に遼東へ逃れている。後に故郷へ戻ると、曹操から司空掾属として招聘された。曹操が国淵に屯田の事務を担当させたところ、5年で糧食の備蓄について好成績をあげ、民衆も競って労働に勤しむようになったという。
建安16年(211年)、曹操が関中征伐に向かうと、国淵は居府長史に任命され、留守の事務を統括した。後に、河間郡で田銀・蘇伯の反乱が鎮圧されると、国淵は「首謀者以外の残党は赦すべきだ」と進言した。曹操もこれを容れている。また、田銀の反乱は領域内の反乱であり、他者に誇るものではないとして、討ち取った首級を実数通り報告している(当時は、公文書で実数の10倍を記すのが慣習であった)。曹操はこれを誉め、国淵を魏郡太守に任命している。
その後、国淵は太僕に昇進し、在職中に死去した。没年は不明だが、曹丕が即位した黄初元年(220年)までには世を去っている。
なお、小説『三国志演義』には登場しない。
人物像
国淵は、学問に熱心で古学を好み、遼東に滞在していた間は、常に山中の巌で学問を行い、士人から尊敬された。朝議における議論では、常に真正面から直言を行なっていたが、退出後は私情に拘泥しなかった。また、謙虚と倹約を心掛け、大臣の位に昇進しても、粗衣粗食を守り、俸禄や恩賜は宗族に分け与えている。師の鄭玄は「国淵は優れた才能を有しており、国の大器となり得る」と評価した。
参考文献
- 『三国志』魏書11国淵伝
- 同魏書2文帝紀