曹肇

曹 肇(そう ちょう、生没年不詳)は、中国三国時代の人物。長思の重臣である曹休の嫡子。弟は曹纂。子は曹興。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人[1]

生涯

太和2年(228年[2]、父の曹休が亡くなると、その後を継いだ。時勢に則した才幹の持ち主で、散騎常侍を経て、屯騎校尉に就任した。

景初2年(238年)、病に伏した皇帝曹叡はまず、曹宇大将軍に任命して後事を託し、曹肇も側近としてこれを補佐することになった。曹宇・曹肇は常に病床の曹叡に近侍していたがある時、相談事があってその場を離れた。この間隙を縫い、曹宇一派と対立関係にあった劉放孫資は曹叡の下に駆けつけると、曹宇一派について讒言すると共に、後事は曹爽司馬懿に託すよう勧め、その意向に沿った詔勅を出させた。事態は二転三転したが、最終的には曹宇一派が宮門から閉め出され、事態への対処に失陥があったとして、罷免された[3]

正始年間に没し、衛将軍を追贈された。子の曹興が後を継いだ。西晋の時代には孫の曹攄が高名を残し、『晋書』良吏伝に立伝されている。

出典

脚注

  1. ^ 『三国志』魏書 武帝紀記載、同族の曹操本貫
  2. ^ 『三国志』魏書 明帝紀
  3. ^ 『三国志』魏書 曹肇伝の他、明帝紀注『漢晋春秋』、劉放伝注『世語』も参照。それぞれの記述により詳細は異なる。