常呂郡
常呂郡(ところぐん)は、北海道(北見国)オホーツク総合振興局の郡。
人口11,777人、面積1,123.16km²、人口密度10.5人/km²。(2024年2月29日、住民基本台帳人口)
以下の3町を含む。
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね上記3町に北見市を加えた区域にあたる。後に紋別郡との間で境界変更が行われている。
歴史
郡発足までの沿革
江戸時代の常呂郡域は西蝦夷地に属し、当初は松前藩によって開かれたソウヤ場所に含まれたが、その後分立したモンベツ場所に属した。
江戸時代後期になると、南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え文化4年常呂郡域は天領とされた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり会津藩が警固をおこない、同6年の6藩分領にともない会津藩領となった。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して常呂郡が置かれた。
また、常呂郡では北見温泉や温根湯温泉などが古くから知られている。
郡発足以降の沿革
- 明治2年
- 明治3年10月 - 再び開拓使の管轄となる。
- 明治5年
- 明治8年(1875年)- 各村名に漢字を当て、野付牛村、生顔常村、常呂村、少牛村、太茶苗村、手師学村、鐺沸村とする。
- 明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
- 第27大区
- 3小区 : 常呂村、少牛村、鐺沸村、生顔常村、太茶苗村、野付牛村、手師学村
- 第27大区
- 明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての常呂郡が発足。
- 明治13年(1880年)7月 - 網走郡外三郡役所(網走斜里常呂紋別郡役所)の管轄となる。
- 明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により根室県の管轄となる。
- 明治19年(1886年)
- 明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、網走支庁の管轄となる。
- 明治42年(1909年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、野付牛村、生顔常村の区域をもって野付牛村(二級村)が発足。(1村)
- 大正4年(1915年)
- 大正5年(1916年)4月1日 - 野付牛村が常呂村の一部(大字少牛村・手師学村の各一部)を編入して野付牛町(一級町)が発足。(1町4村)
- 大正9年(1920年)6月1日 - 置戸村の一部が分立して訓子府村(二級村)が発足。(1町5村)
- 大正10年(1921年)
- 昭和4年(1929年)4月1日 - 相内村・端野村が北海道一級町村制を施行。
- 昭和13年(1938年)4月1日 - 留辺蘂町が北海道一級町村制を施行。
- 昭和17年(1942年)6月10日 - 野付牛町が市制施行・改称して北見市となり、郡より離脱。(1町6村)
- 昭和18年(1943年)
- 4月1日 - 佐呂間村が北海道一級町村制を施行。
- 6月1日 - 北海道一・二級町村制が廃止され、北海道で町村制を施行。二級町村は指定町村となる。
- 昭和21年(1946年)10月5日 - 指定町村を廃止。
- 昭和22年(1947年)5月3日 - 地方自治法の施行により北海道網走支庁の管轄となる。
- 昭和23年(1948年)4月1日 - 佐呂間村の一部が分立して若佐村が発足。(1町7村)
- 昭和25年(1950年)
- 昭和26年(1951年)11月1日 - 訓子府村が町制施行して訓子府町となる。(4町4村)
- 昭和28年(1953年)4月1日 - 佐呂間村が町制施行して佐呂間町となる。(5町3村)
- 昭和31年(1956年)
- 9月30日(5町1村)
- 相内村が北見市に編入。
- 佐呂間町と若佐村が合併し、改めて佐呂間町が発足。
- 9月30日(5町1村)
- 昭和36年(1961年)9月1日 - 端野村が町制施行して端野町となる。(6町)
- 平成18年(2006年)3月5日 - 端野町・留辺蘂町・常呂町が北見市と合併し、改めて北見市が発足、郡より離脱。(3町)
- 平成22年(2010年)4月1日 - 網走支庁が廃止され、オホーツク総合振興局の管轄となる。
参考文献
- 角川日本地名大辞典 1 北海道