内モンゴル人民革命党粛清事件
内モンゴル人民革命党粛清事件(うちモンゴルじんみんかくめいとうしゅくせいじけん)は、1966年から1976年にかけて (文化大革命)、モンゴル人数十万人が中国共産党によって粛清された事件[1]。
概要
南モンゴル(内モンゴル)に居住するモンゴル人は、1920年代から30年代にかけて、外モンゴルにおけるモンゴル革命の影響を受けて、南北モンゴルの統一を目指した組織内モンゴル人民革命党(内人党)を結成した。その後組織は崩壊したが、満洲国崩壊後は興安総省において東モンゴル自治政府が成立すると再組織され、内外モンゴルの統一を目指し活動を行った。しかしその後、中国共産党のウランフ(烏蘭夫)の画策により内モンゴル人民共和国と東モンゴル自治政府は内モンゴル自治政府に再編され、1946年4月に承徳で内外モンゴル統一の代わりに東西モンゴル統一を掲げることが決定され、内モンゴル人民革命党は中国共産党に吸収される形で解党された。
1949年に中華人民共和国が建国されると、内モンゴル自治区には漢人の大量移住が行われ自治区内におけるモンゴル人の人口比率は大幅に減少した。南モンゴル出身の楊海英によると、降雨量の少ない北アジア・中央アジアでは、植皮を失った草原は砂漠化するため、モンゴル人は大地に鋤や鍬を入れることを忌み嫌い、乾燥した牛糞を燃やし、冬になればわずかに枯れた灌木を燃料として利用したが、1960年代に南モンゴルに入植してきた漢人は季節に関係なく、手当たり次第に灌木を切り、さらにはモンゴル人の居住地域内に入り込んで伐採し、このような「小さな利益」を貪る漢人をモンゴル人は寛容に放置したが、気がつけば、草原がところどころ砂漠化してしまい、モンゴル人は漢人を「草原に疱瘡をもたらす植民者」と呼んできた[2]。
1960年代になり中ソ対立が顕在化すると「内外モンゴルの統一」を口実にソ連の介入を招きかねない内モンゴルの自治は徹底的な弾圧を受けることとなる。1966年に開始された文化大革命で内モンゴルへの中央からの介入がより強化され、7月12日、鄧小平は内モンゴル自治区主席であったウランフを呼び出し[3]、「内外モンゴル統一を企む民族分裂主義者」「現代の王公となって独立王国を築こうとしている」などと攻撃して失脚させた。内モンゴルでは内人党分子とされたモンゴル人が弾圧された。
こうした混乱は続き1969年には内モンゴル自治区に軍政施行、内モンゴル生産建設兵団が組織的に送り込まれ、1970年には内モンゴル自治区は廃止され周辺各省により分割された。
1966年から1976年にかけて中国政府は内モンゴル自治区(南モンゴル)、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)、青海省(チベット)、甘粛省、東北三省(満洲)に先住していたモンゴル人に対して「分裂主義者」「地域国粋主義者」などの罪名のもとで、当時の内モンゴルのモンゴル人の人口約150万人のうち、70万から80万人を投獄し、34万6000人が逮捕され、2万7900人が殺害され、12万人が暴行を受けて障害者にされ、5万人から十数万人を殺害した[1][4][5][6]。これは当時の内モンゴル自治区の人口の6割以上を占める[5]。モンゴル人に着せられた「罪」は二つあり、「第一の罪」は、1930年代に日本が満洲国を建国し、内蒙古に蒙古聯合自治政府を樹立したのをモンゴル人が協力したという「対日協力」であり、「第二の罪」は、敗戦により日本が内蒙古から撤退した後にモンゴル人は中国に属することを望まず、モンゴル人民共和国との内外モンゴル統一を要求したことである[7]。この二つの「罪」により、漢人入植者は「民族分裂の歴史」だと断じてモンゴル人を大量虐殺したのである[7]。
南モンゴル出身の楊海英によると、漢人たちはモンゴル人に対し、真っ赤に焼いた鉄棒を肛門に入れる、鉄釘を頭に打ち込む、モンゴル人女性のズボンを脱がせて、縄でその陰部をノコギリのように繰り返し引く、妊娠中の女性の胎内に手を入れて、その胎児を子宮から引っ張り出すなどの凄惨な性的暴行・拷問・殺戮を加えた[2]。内モンゴルのジャーナリストや研究者たちによると、当時内モンゴルに居住していた150万人弱のモンゴル人のうち、犠牲者は30万人に達し、その後、内モンゴルではモンゴル人の人口250万人に対して、漢人の入植者は3000万人に激増した[2]。楊海英は、事件をきっかけに「19世紀以降に満洲、モンゴル、新疆へと、彼ら漢人(中国人)が領土拡張してきた方法」により、内モンゴルは植民地開拓され、「内モンゴル自治区ではモンゴル人の人口がたったの250万人にとどまり、あとから入植してきた中国人はいつの間にか3000万人にも膨れあがり、その地位が完全に逆転してしまいました。中国人による植民地開拓のプロセスは基本的に同じです」と述べている[2]。
アルタンデレヘイ(中国語: 阿拉騰徳力海)は、「中国共産党はまず、ウランフの例でわかるようにモンゴル人の指導者と知識人たちを狙った。文字を読める人は殆ど生き残れなかったと言われるほどの粛清が行われた。50種類以上の拷問が考案され、実行された。たとえば、真赤に焼いた棍棒で内臓が見えるまで腹部を焼き、穴をあける。牛皮の鞭に鉄線をつけて殴る。傷口に塩を塗り込み、熱湯をかける。太い鉄線を頭部に巻いて、頭部が破裂するまでペンチで締め上げる。真赤に焼いた鉄のショベルを、縛りあげた人の頭部に押しつけ焼き殺す。『実録』には悪夢にうなされそうな具体例が詰まっている。女性や子どもへの拷問、殺戮の事例も限りがない。中国共産党の所業はまさに悪魔の仕業である」と批判している[7]。
1979年になり内モンゴル自治区は再設置され、ウランフも名誉回復されたが、内モンゴル独立運動は徹底的に弾圧され、中国政府はジェノサイドをおこなった漢人入植者を処罰しなかったことから、1981年にモンゴル人大学生による大規模な抗議活動がおこなわれたが、当局の厳しい弾圧に遭い、抗議活動を支援したモンゴル人幹部や内モンゴル人民革命党粛清事件を生き延びた人々は全員粛清され、モンゴル人大学生も辺鄙な地域へ追放されて公民権を剥奪された[7]。
2010年、この事件を追及した楊海英の著作、『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』が司馬遼太郎賞を受賞した。楊海英はまた同粛清事件に関する第一次資料を編集し、2019年までに合計12冊を風響社から刊行している。内モンゴル人民革命党粛清事件に端を発したモンゴル人大量虐殺事件は現在、ジェノサイドとして国際社会から認められている。
関連項目
脚注
- ^ a b “南モンゴル「学生運動」デモ行進のご案内”. モンゴル自由連盟党 (2009年). 2010年11月2日閲覧。
- ^ a b c d “習近平が「中国人嫌い」な“あの国”を訪問した意図とは?”. 日刊SPA!. (2014年8月29日). オリジナルの2014年8月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ 櫻井よしこ (2008年6月19日). “「“モンゴル人ジェノサイド 実録”」”. 週刊新潮. 櫻井よしこ. 2010年11月24日閲覧。
- ^ Bache, Vice Chairman of the IMPP (1997年3月15日). “50 Years of Turmoil in Inner Mongolia”. 内モンゴル人民党. 2011年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月2日閲覧。
- ^ a b モンゴル自由連盟党 日本支部. “モンゴル自由連盟党とは?”. モンゴル自由連盟党. 2010年11月22日閲覧。
- ^ 楊海英 (2018年1月17日). “アジアに求められる先人の知恵 胡耀邦氏はチベット、ウイグルなど「連邦制」を模索していた 文化人類学者・静岡大学教授・楊海英”. 産経新聞. オリジナルの2018年9月29日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c d 譚璐美 (2021年6月23日). “狙いは民族抹消、中国が「教育改革」称してモンゴル人に同化政策”. JBpress (日本ビジネスプレス). オリジナルの2021年6月28日時点におけるアーカイブ。
関連文献
- 楊海英 (2008年). “ジェノサイドへの序曲 : 内モンゴルと中国文化大革命”. 文化人類学73巻3号 (日本文化人類学会): p. 419-453
- 楊海英 (2009-01). モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 1: 滕海清将軍の講話を中心に. 風響社. ISBN 4894898810
- 楊海英 (2009-12). 墓標なき草原(上) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録. 岩波書店. ISBN 4000247719
- 楊海英 (2009-12). 墓標なき草原(下) 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録. 岩波書店. ISBN 4000247727
- 楊海英 (2010-02). モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 2 内モンゴル人民革命党粛清事件 内モンゴル自治区の文化大革命. 風響社. p. 113. ISBN 978-4-89489-882-0